グルメな孫たち (12月)
片眼失明状態になって (11月)
総選挙マニフェスト (9月)
大雪山系トムラウシ岳遭難 (8月)
孟子 (7月)
当今の病院医師不足についての一門外漢の感想 (5月)
習字2 顔真卿「祭姪文稿」(4月)
朝青龍のガッツポーズ(3月)
胸中の山水 (2月)
理想の国 (1月)
2007年
独り言
グルメな孫たち
現在、5歳になる孫(弟)は目下のところ人生の快楽は「食」にあると考えているようだ。
先日、孫が言う。「また、ジージの家で焼き芋したい。」 去年の晩秋、孫を呼んで落ち葉焚きをやったのだ。「あの時食べたソーセージが美味しかったー。」とため息をつきながらつぶやく。そういえばあの時冷蔵庫に残っていた神戸デリカテッセンのソーセージをサツマイモと一緒に焼いたのだった。よく覚えている。
今年のゴールデンウィーク、我々夫婦と息子一家で奈良へ一泊旅行をしたときのことである。昼食を近鉄奈良駅前の中華料理店でとった。孫はチャーハンである。夢中で大人の一人前を食べ終わり、満足そうに世界で二番目に美味しいチャーハンだったという。あまり美味しそうに食べていたので私も一口食べさせてもらったが確かに美味しかった。ちなみに一番目はどこのものかママに聞くと宝塚市内の中華レストランのチャーハンらしい。あの店なら私もいったことがあるが、それほど感激するほどのものかな? 翌日は朝から飛鳥に向かったのであるが、孫はお昼にはまたあの店のチャーハンを食べたいと泣いて我々をてこずらせたのだった。
どうも、幼いながら自分独自の味覚の基準をもっているようだし、どこへ行ってもまず食べ物に興味を示す。まあ、快楽の対象が食べ物に向いているうちはいいけれども、将来大きくなって、対象が別の方面に移ったら問題である。
姉のほうも食べ物にはうるさい。確か1歳ちょっとの頃、私の還暦祝いを大阪ミナミのちょっと値の張る中華レストランでやった。そのときフカヒレの姿煮が出たのだが、ママの分にちょっと口をつけるとにわかに目の色を変えて皿を抱え込みガツガツと食べだして、一同があっけにとられてみているうちに平らげてしまった。それ以来、フカヒレには目のない孫娘である。
そんな姉弟であるから、好き嫌いもはっきりしている。姉はプリンだとかババロアなどのケーキが大好きだが、弟は「あんなプルプルしたのは嫌いだ」と見向きもしない。餡ものが好きで饅頭などが大好物だ。
翻って吾が幼年時代をかえりみれば、昭和20年代ということもあって美味い不味いなどと贅沢をいう余裕はなかった。腹いっぱい食べられれば幸せという時代だった。四国山中の農村に育った私は幸い食べるのに不自由はなかったが、金を出したからと入って旨いものが手にはいる土地でもなかった。甘いものといえば祖母がサツマイモから作ってくれるイモアメぐらいだったか。
少し世間に食料品が出回り始めた頃、魚肉ソーセージを旨い旨いと喜んで食べたものだ。母親がたまに町の肉屋で買って帰るプレスハムをこんなに旨いものが世の中にあるのかと感激して食べたものだ。ロースハムなんてものがあるのを知ったのはずっと後、高校生になって県庁所在地の徳島市に下宿してからのことだ。当時ウェイターがいてナイフ・フォークで食べるレストランは市内に一、二軒しかなかった頃の話である。
戦後のことを思えば、いくら不況とはいえ幸せな時代ではある。
片眼失明状態になって
詳しい経緯は来月にでも、もう少し状態が安定してから書くつもりであるが、9月下旬に感染性角膜炎に罹患し現在左眼が失明状態である。どこまで視力が回復するか解らないが、現時点では周りが薄ぼんやりと見えるだけである。最悪の場合は現状のままで固定されるのかもしれない。
古来、伊達政宗とか、柳生十兵衛とか片眼で活躍した人物もいることから、慣れれば片眼でも十分生活できるはずであると高をくくっていた。実は母親も小生と同じ年の頃に緑内障の手術が失敗して片眼を失った。以後昨年88歳で死去するまで、元気に生活していた。読書が大好きで何時も文庫本の小説を読んでいた。
しかし、実際に片眼で生活しているとこれはなかなか大変だし、両目でないと絶対出来ないだろうとこともあるという気がする。その多くは単眼視による遠近感の欠如である。たとえば針に糸を通すような細かい芸当はまず不可能だろう。
日常生活の大部分のことは、片眼で問題なく出来る。外出しても戸外の遠近、凹凸の様は過去の経験から脳内にインプットされており大丈夫である。車の運転、自転車に乗るのも多分大丈夫だろう。勿論、錯覚を起すような状況が今後無いとは言えないのであるが。それと注意すれば出来ることが、何気なくやって失敗することがある。昨日もうっかりワインをグラスに注ぐのに遠近の錯覚をしてテーブルクロスの上に注いでしまった。また、習字で白い紙の上に筆を下ろす時、どの時点で筆と紙が接するかが解らず、思いもかけぬところに第一点を下ろすことになる。これなどは慣れると解るようになるだろうし、電灯で影をつければよいのだろうが。
登山となると話は別である。山道の凹凸はどうなっているか過去の経験からは推し量れないから、今までみたいに山道を走るように下るなんてことは怖くて出来ないだろうな。ストックをついて、ゆっくりゆっくり上り下りせざるを得ないのだろうな。せめて両眼視が出来るぐらいまで視力が回復することを祈るしかない。
そう考えてくると、柳生十兵衛が剣の達人だったというのは嘘臭く感じられる。相手との間合いというのは遠近そのものであり、過去の経験からは推し量れないものがあるはずである。そこでの片眼というのは致命的であろう。十兵衛は柳生宗矩の子として、殿様みたいなもので実際に剣をとって試合をするなんてことはなかったのではなかろうか。
総選挙マニフェスト
今月の更新時には、もう総選挙の結果は出ているだろうが、よほどのことがない限り民主党の大勝利は間違いないのだろう。それほど国民は選挙もせずにだらだらと交代を繰り返した自民党政権に飽き飽きしているのだ。民主党大歓迎というほどの気持ちもないが、せめて清新の空気を吹き込んで、国民が感じている鬱積感を取り去ってもらいたい。
今回の選挙ではマニフェストを各党が出して、その比較が問題となっている。いずれの政党も大判振る舞いの公約だが、それはいずれ国民の負担となって帰ってくることは間違いない。所詮限られた財源をどう配分するかの問題ではないのか。私にとってはマニフェストの違いなどあまり問題ではない。とにかく「一回変わってみてよ」という気分だ。
民主党の鳩山代表はマニフェストは必ず実行すると公言しているが、政治なんて状況に対応して柔軟に対処しなければならないのでは? そんな硬直的なことは言わずに、原則だけは堅持して個々の政策は流動的に対応するのでいいのでは? 民主党に投票したからといってマニフェストの全てに賛成しているわけではない。
全国の高速道路を無料化するといっているが、ちょっと首をかしげたくなる。その財源は車を運転しない人、高速道路を利用しない人たちも負担することになるのだろう。そしてこれは何よりも世界が要求しているCO2削減に逆行しているのでは?
公務員の天下り禁止にしても、彼らは日本にとって貴重な人材だ。オープンなシステムで彼らの能力を再利用する方策を提出すべきだろう。目の敵にするだけでは、いい結果は出ないだろう。
では、堅持すべき原則は何だろう? 日本の将来が元気で幸せになることだろう。そのためにはこれからの日本を担う若者、子供にもっと金を使うべきだろう。年金、医療に関しては彼らが老後に不安を抱かないようにという意味で大切だが、現在の老年層にはある程度のしわ寄せが来ようと辛抱してもらわねばならない。私も老年層の一員だが、子や孫のために使われる金なら、自分の分が減っても文句は言わない。
大雪山系トムラウシ岳遭難
この七月には、我々老年登山者にとっては大変ショッキングな遭難事故が起こった。この事故についてはまだまだ不明な点があり、これから詳細が解ってきて、老年登山者に対する警鐘となるのであろうが、今の時点で推測をまじえて考えてみたい。
以前、2007年のこのページに「高齢者の山岳遭難死について考える」という一文で、老年者が山岳事故に遭う確率は若年者よりも必ずしも高くはないのではないかと書いたが、一度にこんなに多くの老年登山者を死なせるツアーがあるようでは考えを改めねばならない。まさに「お年寄り、あの世行きツアー」である。
そもそも、トムラウシなどという山は私が若い頃(40年ぐらい前)には大学のワンダーフォーゲルなどが重装備で縦走する山で、普通の登山者が登るには相当の準備と覚悟が必要な山だと認識されていたと思う。それが現在は林道が奥まで延びてアプローチが短くなり、また登山用具の進歩で大幅に荷物が軽くなり、我々中高年者でも到達することが出来るようになった。因みに私も52歳の時十勝岳からと、59歳の時旭岳からと二度単独で縦走したことがある。
新聞の報道によると、遭難された登山者は雨具などの装備が不十分で衣服が雨に濡れていたそうである。それにしてもテントを張って、その中で凍死とは!! ツェルトにもぐり込み、乾いた衣服に着替え、シュラフやシュラフカバーを被るとこの時期だったらなんの問題もないはずである。それぐらいはたとえツアー会社がなんにも言わなくても個人装備で持って行かねばならない。
雨具も大切である。今回の遭難では雨具の質が生死を分けたのかもしれない。今だったら、このクラスの山行では絶対にゴアテックスの上下のレインウェアとロングスパッツは必須であろう。40年前にはゴアテックスの雨具なんてなかった。有ったのかもしれないが、普通の登山用具店には売っていなかった。それでだいたいの登山者はポンチョだった。ただアルプスなど高山のガイドブックでは上下セパレートの雨具(ビニールかゴム引き)を推奨していたが、あまり持っている人は少なかったように思う。昔、南アルプス小渋川から稜線の大聖寺平に上がったとたん、寒冷前線に襲われ横殴りの冷たい雨に見舞われた。ポンチョなどはなんの役にも立たず、たちまちずぶ濡れになった。幸い1時間ほどで荒川小屋に着いたため事なきを得たが、これも長時間の歩行であったなら遭難ものだったろう。雨具の大切さを思い知らされた。
今度のツアーでも天候さえよければなんの問題もなく下山できたのだろうが、最悪の天候の変化に備えるのが登山者である。そんなときはたとえガイドの付いたツアーであっても自分の命は自分で守らなければならないことを教えてくれたのが今度の事件ではないだろうか。
最後に、「高齢者の山岳遭難死について考える」でも書いたが、私自身はこの年になったら山で死ねたら本望である。その意味で今度の遭難で亡くなった方々を気の毒だとは考えない。ピンピンコロリの一つの形態である。
孟子
六月中旬、家内の荷物持ちとしてスペインツアーに参加した。その話は別の機会にするとして、今回はその飛行機の中の退屈しのぎに読む本についてである。何時の海外旅行でも一冊は鞄の中に忍ばせてゆくのであるが、それは本棚に飾ってあるが自宅ではまず絶対に読むつもりにはならないだろうという本である。飛行機の中で退屈しても他に読むものがないと仕方なく読むだろうと考えるのである。
長年生きているとそういう類の本が結構本棚にたまっている。だいたいがお堅い本であるから、棄てるのは畏れ多い。岩波書店のものが多いのも当然である。小生の本棚では、たとえば「論語」。これは高校生の時買った諸橋轍次著のもので我が本棚の最古参であり、何度か海外旅行のお供をしているが未だに読了していない。「キケロ選集」。退職して閑になったら読もうと大枚はたいて買ったが、だいたいこういう考えで買ったものは本棚の肥やしとなる。
それで今回選んだものは「孟子」である。いつ買ったか思い出せない岩波文庫の上下2巻に分れたものであるが、全然読んだ記憶がない。どうせ下巻まで辿りつくことはあるまいと上巻を鞄に入れる。
読み始めて、まず感じるのは論旨が明確で非常にわかりやすいと云うことである。たしか吉川孝次郎が議論の漢文としては最高のものだと称揚していた。旅行中に読むことが出来たのは3巻までであるが、各国の王の下問にたいして孟子が「五十歩百歩」などの卑近な例を挙げて、民衆にたいして「仁義」をもって政治を行い民を富ますことが国を安泰にすることにつながるという、いわゆる「王道」を説いている。武力で他国を威圧する「覇道」ではなく、「王道」行うことが天の命令だと実に明朗に主張する。小国の主に対しては、周りの強国に挟まれてどう対処したらよいかと聞かれても、唯ひたすらに民の平穏を守ることに勤める事だと答える。その結果亡んだとしても、天命に従ったのだからきっと子孫に善いことがあるだろうという。
これでは、王様は孟子に政治を委ねることに躊躇するだろうな。権謀術数を尽くして、他国とせめぎ合う戦国時代の現実の政治では理想主義者・孟子は多分無能だろう。斉を強国に導いた現実的政治家、管仲・晏子にたいして、孟子は軽蔑した評価を下している。現実の歴史においても、諸国は秦により「覇道」をもって征服されることになる。
しかし、孟子の主張は忘れ去られてはならないと思う。戦乱の絶えない、生産技術の進んでいない戦国の厳しい現実の中で「老人が道で重い荷物を持つことなく、絹を着、肉を食べ、庶民が飢えも凍えもしない世の中」を夢みた孟子の理想が、科学技術の発達した現代で実現できていないのは悲しいではないか。
当今の病院医師不足についての一門外漢の感想
数年前から、医療現場(主として病院)での医師不足、それに伴う医師の過重労働が顕在化して、今に至ってもニュースに出ていない日が無いぐらいだ。
その直接の原因は、それまで安価に医師を地方病院へ派遣していた大学の医局講座制の崩壊である。今まで、将来の地位、博士号などをエサにして講座に縛られていた若い医師達が新研修制度の下、大学を離れて優れた外部病院で研修を受け、大学に帰らなくなった。講座が与えていたエサが効果無くなったのだ
しかし、こういった事態が将来来ることは新研修制度の決定に関与した役人、有識者には当然予想されたことではないのか。小生のような門外漢には全く見えなかったが。厚労省などは老人人口の増加に伴う医療費の増大を抑制しようとやっきになって、それ以外の将来の総合的な医療政策について考える余裕がなかったのかな?
元来、国民の医療は政策の一部であり、産業、教育などの諸政策とバランスを取らなければならないから、老人が増え、医療技術が進歩して高価な医療が行われるようになったからと云って、国民医療費を野放図に増やすわけにはいかない。たとえば、育児や教育と老人医療のどちらを優先すべきかという選択を迫られればやはり国の将来を担う人々に金を費やすべきだろう。また、高度医療が発達したからといって、今まで助からなかった患者一人に何億もの医療費を健康保険でカバーすべきものでもないだろう。
もう一つの問題は、医師の側の責任である。現場の医師達は医師不足、過重労働が徐々に進行していることが問題となる何年も前から実感していたはずである。それに対して個々の医師からの警鐘はあったとしても、国の政治を動かすような組織だった運動は無かったのではないだろうか。そういう団体と云うことになると、「日本医師会」がまず考えられる。これには病院勤務医も入会しているが、牛耳っているのは開業医である。この中では病院勤務医はほとんど発言力はないし、開業医は病院のことにはあまり関心はない。これからは、勤務医の要求を吸い上げて運動する労働組合の様なものが、将来の医療の健全な発展の為には必須なのではないだろうか。
習字2 顔真卿「祭姪文稿」
一年前(2008.01)「鄭羲下碑」の臨書をプロの書家の指導で始めたことは書いた。先生から送られてくる五枚の半紙に四字づつ書かれた手本と、もとの石碑の拓本を見ながら臨書する。一ヶ月で清書をすませて送り返すと、暫く経って添削と次の手本が送られてくる。なかなか厳しいコメントが付いてくる。十二ヶ月経って、半紙六十枚、240字書き、練習で約一千枚の半紙を書きつぶした。ここまでやっていると、だんだん楽しくなり、次の手本が送られてくるのが待ち遠しくなる。実際に筆をとるのは一ヶ月に2,3日なのだけれども。(写真:この程度には書けるようになりました)
一年経ったとき、先生からここらで一応鄭道昭はお終いにして、来年は動きのある書を勉強してはとの勧めがあった。私としても今度は行草を習いたいと思っていたので望むところである。
さて、次は何を臨書するか、色々考えた末に、顔真卿「祭姪文稿」に決めた。初心者には難しいかなと先生に相談すると、書きたいものを習うのが一番とOKを頂いた。
何故、「祭姪文稿」かというと、以前の鄭道昭は好きだから選んだのだが、これはどこが良いのかさっぱり解らないからである(写真)。それが書史上、最高の名品の一つとされているのは悔しいではないか。
「祭姪文稿」は、顔真卿の甥が安禄山の乱で捕らえられ斬死したのを弔う祭文の原稿である。顔真卿の直情径行な性格がよく出た、いわば殴り書きの原稿である。こういう個性の強い書の鑑賞は難しい。字の形よりも、筆遣いや線の勢い、美しさが重点となってくるので、書を学んでいないものにとっては理解できない。これは絵画の鑑賞でも本質的には同じかもしれないが。そこで臨書をしているうちに、少しはその素晴らしさが解ってくるのではと考えたのだ。
送られてきた手本を見て驚いた。原本は小筆で書かれた小さな文字であるが、これは半紙に思い切り太い文字が大きく四文字が書かれてある。顔真卿もこんな大きな字ならこうは書かなかったのではないかと思うと、ひょっとすると別なものを習っているのではないかという気もするが、臨書してみると意外に楽しい。太い筆の根元まで墨をたっぷりふくませて思い切りよく太い線を引く。一年間楽しめそうである。
朝青龍のガッツポーズ
ちょっと、亀レスになりますが、初場所の朝青龍はすごかったですね。背水の陣で臨んだ場所で圧倒的強さを見せて見事に優勝しました。優勝が決まってのガッツポーズ、感極まっての行動でしょうが、見ていて私は何の違和感も感じませんでした。素直に拍手が出ましたね。
後から、相撲は神事だから礼儀正しくなければならぬと、大分非難されたようですが。しかしそんなしかつめらしく、感情を押し隠すことは後世、儒教に神事が毒されてからのこと。古事記を読むと解るが、古代に日本人はもっとおおらかだった。日本古来の神々は相撲において正々堂々とした勝負と力士達の素直な喜怒哀楽の表現を嘉したまうのだ。
それに神事神事というけれど、大相撲が外国人力士を受け入れ始めたときから、神事としての勤めを放棄したのではないか。昔、山本七平氏が喝破したように、日本人は表向きの宗教が何であろうと、根本は「日本教」の信者であり、それぞれ「日本教仏教派」、「日本教キリスト派」・・・なのだ。そして、古来からの相撲神事は「日本教」に関係するのだ。日本人がやってこその神事だろう。それを欧米人にやれと云っても、無理な話だ。
しかし、モンゴル人は別かもしれない。ルーツを同じくするモンゴロイドとして、古来から受け継いでいる心情に共通するものがある様な気がする。そう考えると、朝青龍のあくまでも強く、やんちゃな性格は、古事記に表れる素戔嗚尊(すさのおのみこと)の化身のようにも見えるではないか。
相撲協会のお偉方は、自分たちの意のままにならない朝青龍にいらだっているようであるが、おおらかに受け入れるのが最善、日本人に強い力士がいない今、朝青龍と白鵬を車の両輪として大相撲を運営してゆかざるを得ないではないか。
胸中の山水
以前、山に登る夢をよく見た。最近は、全く見なくなって寂しい思いをしているのだが。夢の中では、歩いている周りの景色、山の鳥瞰的な地形など実にはっきりしているのだが、さて、目が醒めて色々思い起こしてみるのだが、どうも現実にいったことのある場所に思い当たるところはない。登り始めあたりは故郷の色々な場所のようであるが後は完全に想像上の山である。いつも同じ山が夢に出てくるのではない。今でも覚えているのは、5,6ヶ所ぐらいだろうか。
何度も見ているうちにそれらの山々が繋がって、一つの大きな山系となってしまった。繋がり方には曖昧な部分がたくさんあるし、矛盾しているところもいっぱいあるのだが。
勿論、当時沢歩きや渓流釣りがすきだったので立派な渓谷も含まれている。夢で見る渓流釣りは現実と同じく決して入れ食いになることはなかったが。
話は変わるが、東洋の伝統的絵画に山水画がある。この中には写生的な絵もあるが、多くは画家の想像上の山水である。絵には村や楼閣、山道や渓流に浮かぶ小舟など実に細かい書き込みがある。我々鑑賞者はその絵の中に身を置いて、楼閣に腰を据えて風景を楽しみ、小舟に座って流れを下り、山道を辿りながら景勝を探るのである。こうして、じっくり時間をかけて、画家の心の中の山水の遊ぶのが山水画の鑑賞の仕方ではないだろうか。これは西洋の絵画に対するときとは全く違うのではなかろうか。
同じ事が漢詩についても言えそうである。詩人が詠う自然は実景である必要性は全くない。心に浮かぶ山水に花を咲かせ、雪を降らせればよいのである。
漢詩の中に即事の詩というのがある。これは実際に自分の身の回りで起こったことに感じて作る詩で、絵でいえば写生の絵に相当するのであろうか。実は私が作るのは即事の詩ばかりである。というより、これしか作れないのである。まあ、日記代わりに詩を作っていると言えようか。
もう一つの詩の作り方に題詠というのがある。これは先に詠う対象を決めて詩を作るのである。この場合、どうしても詩が陳腐になりやすいので、表現に優雅な言葉を用いたり、奇抜な表現を用いたりしなければならず、詩人の技量が試されることとなる。これが苦手である。題を与えられても私には何の感興も湧かないのである。これでは詩が作れない。
それで、ふと思いついた。私には心の中に一つの山水を持っている。これに題を重ね合わせればよいのではないか。ここに花を咲かせ、雪を降らそう。これが今年の作詩の課題である。
理想の国
戦後、昭和二、三十年代、一般の日本人の多くが理想とした国はスイスであった。今の若い人たちにはちょっと信じられないだろうが。当時、日本に多くの援助をしていたアメリカ人などは、「スイスのどこが良いんだ。どうしてアメリカではないのか。」と憤慨したそうである。
まあ、敗戦の痛手に縮こまってしまい、負け犬状態だった日本人にとってアメリカのような国になれるとは想像だに出来なかった時代である。
写真で見る風光明媚で牧歌的なスイス、永世中立国という標榜も魅力的だった。戦争放棄の憲法下、非武装中立を目指す日本が、国を守るために徴兵制を敷き、国力不相応な軍事力を維持しているスイスと違うことには目を瞑って。中世以降、山国のスイスは重要な輸出産業として、ヨーロッパ各国へ傭兵隊を派遣して金を稼いでいた。随ってスイス国民は本来好戦的な歴史を持っているのだ。
スイスが理想かどうかは別として、一般日本国民が理想としたのは、アジアの片隅でこぢんまりと周りの国と波風を立てずに温和しく生きてゆくことではなかっただろうか。アメリカ、ソビエト、中国という大国の間にあってそういうことが非武装で可能かどうかの議論はあまりされなかったように思う。国連という世界機関が何とかしてくれるという軽い気持ちだったのではないだろうか。なにせ日本は食べて行ければ有難かった時代である。 スイスが理想の国という意識が薄れていったのは、所得倍増論に始まる高度成長期以降だろう。経済規模が大きくなり、もうスイスなどは手本とするには足らなくなった。いまは世界で一二を争う経済規模を誇り、国連で常任理事国を目指し、世界の政治を動かしてゆこうと考える時代である。
しかし、この激動の時代に経済的影響力は別として、世界に対する政治的影響力は現在の国連常任理事国に比べて格段に少ない。これはたとえ日本が常任理事国になったとしても大きくなるものでもあるまい。今の日本の政治家に世界の首脳と肩を並べられる力量をもつものがいるとは考えられない。たとえばオバマ新大統領のように演説で国民を感動させる政治家が日本にいるだろうか。日本人が受けてきた教育の質、レベルがあまりにも違いすぎるのではないだろうか。
まあ、当面は分相応にあまりしゃしゃり出ず、経済面での世界貢献を目指しての、中級国家の地位で良いのではあるまいか。