中国の行方 (Dec)
地に堕ちた英雄 (Nov)
竹島か、独島か?(Sept)
書道 臨書5年目 (July)
杞憂 (June)
英語が上手いと言われちゃった (Apr)
成人病(Mar.)
将来の日本人口 (Feb)
2011年回顧 (Jan)
2007年 独り言
中国の行方
胡錦濤が退任して、次の中華人民共和国のトップは習近平となることは確実なようだ。毛沢東から始まった共産党独裁は皇帝という頭はないもののその支配体制は共和国と言うよりも中国共産党王朝といってもよいシステムだ。
鄧小平は共産党独裁下での資本主義導入を行い、現在の中国の経済的繁栄はそれが見事に成功したように見える。しかし考えてみると宋代以降、政治的権力と商業資本が結びついて、繁栄を謳歌するという基本構造は今に至るまで変わっていないのではないかとも思われる。まあ、これは世界中どこの国でも多かれ少なかれあることであるが、独裁政権下ではチェック機能が働いていないので、いっそう顕著になる。
現在、中国では貧富の格差が大きくなり、底辺の庶民が苦しんでいるとの報道が多い。しかしこれも、中国の長い歴史の中で底辺の庶民が苦しんでいない時代があっただろうか。孟子は普通の年寄りが皆、絹の着物を着て、肉を食べられる時代の来ることを夢見たが、そんな時代は一度だってなかった。
過去の王朝が交替したときには、何が原因だったのだろうか。北方民族の征服による者もあったが、旱魃飢饉による農民の流浪化、暴動が大きな要因だったのではないだろうか。人民は今日より明日が少しでもよくなるとの希望があれば我慢するが、将来に絶望すると暴動を起こす。漢末の黄巾賊、五斗米道、元末の白連教、清末の太平天国の乱などはみな宗教集団が暴動の中心となっていた。先に江沢民が気功集団の法輪功を弾圧したのも、こういった暴動の芽を摘み取っておこうとの意図があったのではないだろうか。
しかし現代の世界で暴動だけで中国のような大国の独裁政権がつぶれるであろうか。軍隊が政権側についている限り、鍬や鎌の武装ではどうしようもない。太平天国の大軍も洋式の武力にはあっけなく壊滅した。
従って、もし共産党王朝が覆るとしたら、中国が経済的破壊状態に陥り、軍隊が危機感を持ってクーデターを起こすというシナリオなのかな?
もしそんなことになったら、日本だって対岸の火事と気楽に眺めておられる状態ではないだろう。中国政府が上手に富の再分配を行って、一般市民が幸福感を持つような政策をとることを願うばかりである。
地に堕ちた英雄
ランス・アームストロングがサイクルスポーツ界から永久に追放されることとなった。ドーピング疑惑によって、ツール・ド・フランス7回の総合優勝など前人未踏の輝かしい記録のほとんどが取り消しとなった。ランス本人はドーピング疑惑を否定しているが、動かぬ証拠があるようでこの決定が覆ることはないのであろう。
スポーツ界、特にプロ・ロードレースではドーピングがかなり蔓延しているようである。近藤史恵のロードレース小説「サクリファイス」「エデン」ではドーピングが主題の一つとなっている。私が好きだったヒルクライムの王者、デンマークのミカエル・ラスムッセンもドーピング疑惑の汚辱にまみれた。
トレーニングによって筋力増強を図るのはいいが、ステロイドなどの筋肉増強剤はダメである。空気の薄い高地トレーニングによって赤血球数を増やし心肺能力を高めるのはいいが、輸血によって赤血球数を増やすのは許されない。勝たねばならないプロスポーツの宿命が、つい安易な方法へと向かわせるのだろうが。
以前、ランスの自伝「ただマイヨジョーヌのためでなく」 (2010.08) を紹介したが、抗がん剤によるガン克服後、不死鳥のごとく復活した経緯は本当に読者を感動させた。その途上で一時的に筋肉増強剤の使用するぐらいは目をつむってもよい。しかし、ドーピング行為を常習していたとなるとこれは不公正である。
この事件は全世界のロードレースファンにショックを与えた。これによってロードレースの人気に影が差さねばよいのであるが。
竹島か、独島か?
最近、竹島問題といい、尖閣諸島といい領土問題がうるさいことになってきている。また、北方領土も懸案事項のままだ。
竹島について考えてみると、地図上は韓国からと日本からとほぼ同じ距離にあるようだ。島は写真を見る限りではちょっと大きな岩礁という感じで島自体には何の価値もなさそうである。やっかいなのはそれに付随する領海とか、排他的経済水域といった問題だろう。 その所有権の正当性については、一般庶民の私には確たる意見があるわけではない。ただ日本国民としては、自国の政府の言うことを「そうだ、そうだ」と後押しする以外にはない。韓国の一般国民だって同じようなものだろう。
しかし、こういった領土問題というものはどういった形で決着するのだろうか。両国がいくら論争しても、片方が引き下がる事態にはならない。水掛け論で終始するだろう。過去においては、戦争になって勝った方が取るというのが一般的な決着方法だったと思う。 しかし、まさか竹島ごときでまともな喧嘩をするわけにもいかないから、これから百年ぐらいの長いスパンで両国が適当に、そして穏やかに領有権を主張し合ってゆくのがいいのだろう。決して熱くならないことが大事だ。領土問題ではどちらか一方が何らかのアクションを取れば必ず他方からのリアクションがある。
私個人の意見としては、この島の領海権とか排他的経済水域といったものを両国が放棄するのであれば、こんな岩山どちらのものになっても全然気にしないのだが。
今回の韓国大統領の上陸にしても、選挙前の人気取りのパーフォーマンスだろうから、一応の冷静な抗議をしておけばよかった。しかし、大統領の日本国天皇に対する侮辱的発言は非常に拙かった。私自身、日頃それほど天皇を敬愛しているわけではないが、あれには日本国全体が侮辱されたような不愉快な気持ちにさせられた。たぶん日本国民なら大多数の人が同じように感じただろう。あれで日本人の韓国に対する好感度は大分低下したと思う。
これはどこの国でも、その国の元首が侮辱されれば国民は侮辱したものに対して反感を抱くだろう。幼稚な行動としか思えない。
書道 臨書5年目
臨書を始めて、もう5年目に入っている。昨年まで2年間、懐素の草書千字文を臨書していたが、だいたい半分、正確には480字、習ったところで少々飽きてきた。ちょっと単調なのである。それといくら草書が書けても、現代の普通の人には読んでもらえないのである。
行書というのは楷書を書きやすく崩したものであり、楷書と似ているのでだいたい誰でも読める。ところが草書は行書を更に崩したものではないのである。楷書とは全く別の系統で発達した文字であり、楷書からは想像もつかない文字が多い。一つ一つ覚えないと全く読めない。従って、現代では草書という字体は書道界以外では死んでしまったものといえよう。
書道展で、何と書いているのか読もうとすると、作者が「読まないでください。筆の勢いや、線の美しさを鑑賞してください。」という。だったら、わざわざ字を書く必要は全くないだろう。墨で描いた絵画でしかない。「書」というのは書いている内容から離れては存在しないと私は思う。
草書を書いていると、さすがにそのときには何という字を書いているかを理解して書いているのであるが、数週間後、添削されて返ってきたときにはすっかり忘れて何という字だったか覚えていない。全く年寄りの惚けにはいやになる。もう草書はやめにした。
しかし、草書を習ったことは無駄ではないと思う。流れるような筆遣いや、線の美しさに対する意識などは、行書を習う上でも役に立つ。
そんなわけで、今年は宋代の書家、米芾の行書を臨書している。
米芾は大変興味深い人物であるので、いつか紹介しよう。
杞憂
3月のアイルランド旅行の機内読書用の本として「列子」を持参した。前回までの海外旅行に持って行った「孟子」はやっと上巻(岩波文庫)を読み終わったばかりだが、少々退屈してきたので、一寸目先を変えたくなった。それで本棚を探してみると「列子」が見つかった。これも何時買ったか記憶にないし、当然全く目を通していない。
「列子」は「老子」「荘子」と並ぶ道家思想の本であるが、「杞憂」とか「朝三暮四」などの故事成語のもととなる説話の宝庫であるらしい。この書の主人公(著者?)の列子自身は厳しい修行の末、自分の体を虚にして風に乗って自由自在に飛び回れるようになったという。
さて、この書のはじめのほうに「杞憂」の話が出てくる。杞の国のある人が、天が落ちてこないかとひどく恐れる話である。これは、全く起こりえないことを心配する馬鹿な人の話だと、今まで思っていた。
しかし、「列子」を読んでみると、少しニュアンスが異なるようだ。列子は天が落ちてくる可能性を否定してはいないのだ。目の前にある天地は広大な宇宙のなかのちっぽけな存在でしかないが、我々が実感できる最大のものだ(なかなか正確な表現ではないか)。この天地の運命は我々には計り知ることはできない。天地が崩壊するとしてもずっと先の話であろうが、といって絶対起こらないというのも間違っている。
要するに、人知で計りがたいことに、あれこれ心を煩わすのは無駄なことだといっているのだ。天地が滅びるときに遭えば、それ杞憂は悲しむべきことだが、それを心配しても仕方がない。
今回の大震災でも、起こる前にこれほど大きくなる可能性を心配していれば、大半の人は杞憂だと思ったであろう。次に必ず来るであろう東南海地震、どれほど大きなのが来るのであろうか、杞憂と杞憂でないのの境目は? あらゆるリスクに対応することは不可能である。巨大な隕石が地球に落ちてきたら人類は絶滅する。どこかで折り合いをつけなければならない。原発問題でもある程度のリスクとの共存はやむを得ないのではないだろうか。
英語が上手いと言われちゃった
小生、英語は上手くない。まあ、英語圏を個人旅行するぐらいは何とかなるが、それも身振り手振りを交えながらの片言英語である。特にヒアリングが弱い。観光地でガイドの言っていることなどは殆どわからない。一生懸命に聴こうと努力するのがしんどい歳となった。それと苦手なのが、道を聞くこと。「あっちへ行って、どこそこの角を右に曲がって・・・・・・」。解るのはここいらぐらいまでだ。まあその辺まで行ったら、また聞けばいいさ。長くなると、日本語でも難しいもの。
この歳になると、単語もだいぶ忘れてきた。とっさに出てこなくなった。これも日本語と同じである。元々流暢になど喋れたことがなかったのに、この頃はひどいものである。 それが先日のアイルランド旅行中に、パブの女主人から「あんた、英語が上手だ」と言われた。そのときは他に客がいなくて、彼女も退屈していたのであろう。片言ながら、二人でお互いの身の上話やその土地のことなどを話し合い、ちょっとした冗談で笑い合ったのであった。
そういえば、十数年前ほど前にも、同じようなことを言われたことを思い出した。それは、ロンドンからフランクフルトへ向かう機内でのことである。隣に座っていたのが、なかなか風采の立派な老英国人である。出版関係の仕事をしていて、ハノーバーの見本市に行く途中とのこと。「おまえの読んでいる本は何だ?」「中国の古典詩集だ」そのとき、漢詩集を読んでいた。「私は現代詩の出版をやっている。日本の著名な現代詩人は誰だ?」これには困った。小生は現代詩などには全然興味がない。「谷川俊太郎、大岡信、むにゃむにゃ」「英国の現代文学に興味があるか?」「David
Lodgeが好きで、何冊か読んだ」これにはちょっと感心してくれたようだ。そのうち、Kazuo Ishiguroのことに話題が及んだ。彼は個人的に面識があるらしい。その数年前に「日の名残り」が映画化されていて、小生も原作(翻訳)と映画を見ていたものだから、いろいろ感想やらで話が弾んだ。最後に飛行機から降りるときに、「おまえは英語が上手だ」と言われた。
要するに、英語圏の人たちにとって流暢に英語を喋れるのは当たり前のことであって、それ自体は何の面白いことでもない。それよりも片言英語であっても、知的な会話や冗談などで楽しい時間が持てたことが大事なのだ。それで、小生の英語が上手だと言われたのだろう。
会話の勉強も大切だが、それ以上に幅広い教養を身につける努力が必要だ。海外で会話していて、当地のことは知らなくてもそれは許される。相手が喜んで教えてくれるだろう。しかし、日本のことを聞かれて答えられなかったら、これは相手にとって大変興ざめなことになる。
成人病
私はいくつかの企業の健康診断の結果をチェックする仕事をしているが、まあ、成人病、あるいはその予備群の多いこと。驚くほどの割合である。糖尿病、高血圧症などを自覚して治療を受けている人はよいとして、無自覚、あるいは自覚していながら放置している人が相当数いる。
その理由はほとんどの成人病に自覚症状がないこと、治療に多かれ少なかれ食事制限、運動など、生活上で摂生を要求されることである。これが苦手な人が多いのだろう。高尿酸血症で痛風発作を経験すると、これに懲りてしばらくは薬を飲んだり、食事に気をつけたりするが、これとて喉もと過ぎればなんとやらで、発作が起こらなくなると服薬を中断したり、美食を求めるようになる。
成人病が増えたのは、やはり世の中が豊かになり、低所得層といえども食事の質は別としても十分すぎるほどのカロリーを摂ることができる時代となったこと、それと、衛生状態、医療環境の進歩にともなって寿命が伸びたことが原因だろう。
そもそも、人類の進化における自然淘汰の条件には長生きということは入っていなかったのだろう。ヒトいう種が繁栄するには、まず子供を健全に成長させることが大事である。成長期には細胞がどんどん増加しているので、細胞核の成分であるプリン体や細胞膜を構成するコレステロールは必須の栄養分である。そのため、これらは食事から十分にとれない場合の担保として体内で合成するように進化してきた。いま、これらの物質の半分以上は体内で合成されている。
また、成年期に肉体を駆使して活動するには、血圧や血糖値を高めに保つほうが有利だ。
ところが、老年期を迎え、成長が止まり活動が衰えると、そういったものが逆に作用するようになる。
動物が生殖能力を失ったり、体力的に群れの活動に貢献できないような年齢になったとき、それ以上に長生きしても種の繁栄にはほとんど貢献することはなかっただろう。従って、長生きは自然淘汰の条件とはならず、長命の遺伝子が選択的に蓄積されることはなかったのだろう。
したがって、年をとってもプリン体やコレステロールを若いときのように作り続け、血圧、血糖などが高いことにも悩まされることになった。長寿の時代を迎えた我々にとっては根本的な問題なのだろう。
将来の日本人口
先日のニュースよると、現在の出生率の減少傾向が続くと2060年の日本人口は現在の三分の二に減少し、そのうち65歳以上が40%を占めるようになるらしい。
小生の持論からすると、日本列島の適正人口は七千万人ぐらいがいいのではないかと思うので、それに近づいて行くのだろうが、こんなに急に減少すると大きな社会の歪みが起こるのは必至だろう。幸い、小生はその時代には生きていないので他人事ではあるのだが、孫たちがその時代をどのように生き抜くのかを考えるとちょっと胸が痛む。
もう右肩あがりの経済成長の神話などは捨て去り、どのようにして穏やかに縮小してゆくかを考えなければならないのではないだろうか。これから益々増加する老人層が発言力を増すことなく、若い世代を活力化させるようにしなければならぬ。年寄りは若年者を助けながら、まあ70歳ぐらいまでは働かねばならないだろうし、年金も贅沢は言えない。人々は物質的豊かさを求めてはいけない。価値観、幸福感を別の方向に求めねばならない。 ブータンでは国民の幸福度という指標を提唱している。これはちょっと胡散臭いところもあるが、そういうことも参考にしよう。昔、誰だったか「貧困の思想」という本を書いていたが、あの本の内容はともかく、そういう題でまた誰かが別の観点から書かなければならないのではないだろうか。
日本とは異なり、世界人口はこれから益々増え続けるようだ。しかし、地球上で人類だけが突出して繁栄するのが良いわけがない。アリのように小さい生物なら話は別だが、人間のような大きさの動物が70億も地球上にのさばって、他の生物を圧迫していては健全な地球環境とは言えない。いずれ資源が枯渇するのは眼に見えている。
まあ、そんな時代を目にすることなくいなくなる我々世代は幸せかもしれない。
2011年回顧
ひどかった2011年もようやく終わった。
数え年では私もちょうど70歳となった。満68歳というとまだまだという気もするが、七十というとグッと老けた感じがするではないか。昭和18年生まれで、農村育ちの私には戦争の悲惨な記憶はないので、国内の大惨事に遭遇するのは阪神大震災と今回の地震ぐらいである。ただ、阪神大震災の時は知人や知人の家族が何人か犠牲になったが、今回は遠く離れた地方なので犠牲者の中に知った人はいなかった。しかし、2万人近い犠牲者のご遺族の痛恨の思いは察するに余りある。次に東南海地震であるが、何時か必ず起こるのであろうが、どうか私の生存中ではないように願うばかりである。
さて、個人的な事情としては、1911年は比較的平穏無事であった。まあ、よく遊んだ方だろう。アウトドアの遊びはHPを見ていただくと判るが、それ以外というと、まず漢詩であるが、これはあまり作れなかった。一つは詩想が涸れてきたというか、詠みたいと思うことが少なくなったことと、詩句を辞書で調べる根気がなくなったことである。今年は頑張らねばと思っている。
もう一つの趣味・書道の方は仕事の関係で書道教室に通えなくなった。秀島踏波先生の優れた指導によって大分自信が付いたのだが。それで現在は渡部大語先生の通信教授だけとなった。こちらは2年間、懐素の千字文を臨書しほぼ半分を終えたが、少々厭きてきて、今年から米芾の行書を習うことになった。米芾も奇行の多い人物のようであるが、書は素晴らしく私の大好きな書家の一人である。
今年のアウトドア活動は、体力的にあと数年で大したことは出来なくなるだろうと思うと、聊か焦ってくる。幾つか計画しているがこれはまたホームページにアップしてゆきます。