「黄州寒食詩巻」の臨書 (Dec)
留学同窓会 (Nov)

蘇東坡「黄州寒食詩巻」 (Oct)
伊賀のシエスタ (Aug)

聴講生 -七十の手習い- (July)
カプセルホテル (June)
ウクライナ問題 (May)
ベトナム旅行の印象 (Apr)
PM2.5 (Mar)
2013年回顧と今年の抱負 (Jan)

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「黄州寒食詩巻」の臨書
 先に東京国立博物館で開催された「台北故宮博物院展」を見に行ったことは書いたが、その時のお目当てだった実物の「黄州寒食詩巻」には感激した。古今の書道家が歴史上の最高傑作と評している。小生にはそこまでは判らないが、十分に迫力は感じられた。その感激を現在臨書の指導を受けている先生に伝えたところ、「では次回から蘇軾の臨書を始めましょう」と勧められた。
 二年近く、米芾を臨書していたのだが少々飽きが来ていたのでちょうどよいかと蘇軾に乗り換えた。それにしても米芾には手こずった。なかなか先生の花丸が頂けない。米芾の書は用筆に技巧が凝らされている。いわゆる超絶技巧というやつか。
 ところが蘇軾の「黄州寒食詩巻」を臨書してみると、実に書きやすい。筆が素直に動いていく感じだ。もちろん、まだ書き始めたばかりで先生の丸はあまり頂いていないのだが。 米芾、蘇軾、黃庭堅などは北宋の代表的書人であるが、書家としての専門性が高いのが米芾である。他の二人は官僚として多忙であり、その余暇として詩や文章、書をたしなんだ。蘇軾、黃庭堅は科挙に合格して官僚としての道を進んでいったのだが、米芾の場合は父親が高官であったため官僚に任用された。いわゆる任子の制による任用である。従って若いときからあまり受験勉強はしておらず、もっぱら好きな書や画を書いてのではないだろうか。官僚としてもあまり高位に昇ることは出来ず、比較的閑職にあったのではないだろうか。そうして書の専門家としての地位を確立したのだろう。米芾の書は一見すると蘇軾、黃庭堅などの書より字形が整っていて素人見には美しい。小生が最初に飛びついたのもそれが理由である。しかしまあえらい目に遭った。
 一方、蘇軾は自分でも「我が書は意造にして本より法なし、点画 手にまかせて 推求を煩わす」(石蒼舒酔墨堂)といっているように、書法とか字形よりも筆意を重視した書である。それで小生のような素人には何処が素晴らしいのかちょっと判りかねるところがある。しかし、意に任せて奔放に書いてよいのなら素人にとって望むところではないか。「黄州寒食詩巻」「前赤壁賦」と臨書を楽しもう。

留学同窓会
 小生、35歳の時アメリカ東海岸にある大学に一年半ほど留学した。留学と言ってもポスドク(Pstdoctorial fellow)といって、給料をもらって大学研究室で研究するのである。安い給料ではあったが、大学所有のアパートに入り贅沢しなければ妻と子供三人で充分生活できた。もちろん休暇を取っての長距離旅行などは持ち出しではあったが。
 研究生活は日本にいたときとは違って、雑用は一切なく研究に打ち込めたし、当時は研究費も日米の格差が大きく贅沢な研究が出来た。短い期間でたいした業績も挙げることは出来なかったが、今思い出しても記憶に残る心躍る期間であった。
 しかし、もっともアメリカでの生活を享受していたのは妻だっただろう。三人の子供を抱えながら溌剌と生活をしていた。しかし、夫の小生は週末は必ず家庭サービスをさせられていた。日本いるときには週末は一人でアウトドアライフを楽しんでいたのに。
 帰国後、在住していた女性たちが中心となって同窓会が出来た。私たちよりもだいぶ年上の方たちが最初のメンバーであったが順次若い人たちも参加して行き今は妻たちの年代が中心になろうとしている。といってもみんな六十代なのだが。我々以後にも多くの日本人が留学したはずなのだが、今はそういう動機で群れようという風潮はないのか我々が最後の年代となりそうである。
 同窓会は2年ごとに日本各地で懇親会を催して旅行を楽しむ。我々男性どもは女性に従って言うなりになっているのみである。皆さんそれぞれの分野で活躍された方たちなのだが。そんな方たちが2年ごとに嬉々として集まってくるのは、やはりアメリカでの研究生活の思い出が素晴らしいものであるからだろう。
 今秋、二十数回目かの懇親会が東京で開催された。さすが東京とあって今までにない人数の参加があったが、翌日からの埼玉県の旅行は二十名ちょっとぐらいとなり、そのうち男性はたった4名であった。常連の参加者のうち3人の方が前回からの2年間に逝去された。残りの我々も体力がだいぶ衰えて来ている。女性たちは相変わらず元気で溌剌としているのだが。
 いずれこの同窓会も消え去る運命にあるのだが、小生も元気なうちは参加させてもらいたいと思っている。


蘇東坡「黄州寒食詩巻」
 蘇東坡(蘇軾)は中国北宋時代の官僚で、中国歴史上最高の文人といわれている。文章は唐宋八大家の一人であり、詩は北宋四大詩人の一人であり、書も北宋四大書家の一人である。また、絵画においても大変上手であったといわれている。
 当時、新法党と旧法党の政争が激しく、旧法党のリーダーであった蘇軾は反対派に陥れられて、捕らわれ獄に繋がれる。名目は彼の作った詩が新法の政策を批判し、それが結果的に皇帝を誹謗したということにされた。一時は獄中から生きて出られぬと覚悟したが、処分は長江沿岸の黄州への流刑であった。一家を連れての黄州での生活は大変苦しいものであったようであるが、それが蘇軾の文学的境地を高めたといわれる。
 蘇軾47歳の時黄州で三度目の寒食を迎え、五言古詩「寒食雨 二首」を作った。どんな苦境に遭っても楽天的でユーモアを失わなかった蘇軾にしては珍しく悲哀に満ちた詩である。詩の内容は長くなるので今回は省略する。
 その詩を知人の依頼で書き与えた。その書には中に書き間違いがあるので練習などはせずに即興で揮毫したのであろう。その書に後に蘇軾の友人(弟子)であった黄庭堅(彼も北宋四大詩人、四大書家の一人)が題跋をを書いた。この黄庭堅の書も素晴らしいものとされているが、内容は「蘇軾この詩は李白の詩にも勝るものであり、書も唐代の書家の意を兼ねており、蘇軾にもう一度書かせても二度とこれほどには書けないだろう」と激賞している。
 この書は変遷を重ねて清の乾隆帝の所蔵となり、現在は台北故宮博物院に収められている。古来、中国現存の書の最高峰と目されている。
 さて、私はこの春から大阪大学文学部の聴講生となり、蘇軾の詩の輪講に参加している。そのことを書の師匠に伝えたところ、現在の米芾から蘇軾の臨書に移ることを勧められた。まず最初は「黄州寒食詩巻」である。正直言って、宋代の書は字の形の美しさより、筆意や個性を重視しているため、私のような初心者にはどこが好いのかさっぱりわからない。米芾の臨書を始めた時もそうであったが、臨書をしているうちに徐々にその良さがわかったような気になってきた。蘇軾についてもだんだん判ってくることを期待している。
 先日、東京国立博物館で故宮博物院展が開かれ、「黄州寒食詩巻」が出展された。これは見に行かなくちゃ。わざわざ、東京まで出かけた。現在、原色の精巧な写真版の写本を持っているので実物を見てもたいして変わりがないのではと思っていたが、微妙な濃淡の差、立体感が感じられ、迫力に圧倒された(感じがした)。ボーッとなって大阪に帰ってきた。

寒食とは日本では馴染みのない習慣ですが、昔の中国では冬至から百五日目(大体陽暦の4月初め)を寒食といい、この日は火を使うのを禁じ前日に作った冷たい食事をしたそうです。そのいわれは、この日には突風や、豪雨が発生する日といわれたからだそうです。特に唐、宋時代にはこの日を挟んで3日間、冷たい食事を食べなければならなかったようです。
もう一つ寒食の俗説として、春秋時代晉の文公が、家臣だった介子推が山に隠棲しているのを再び重用しようとしたが、どうしても山から出てこないので、追い出そうとして山に火をつけたところ、焼け死んでしまった。それを悼んでその日は火を使わないようにしたのが寒食の始まりだという。
暖かい食事になれた中国人にとっては、侘しいものだったようでその感慨を詠った詩が多くあります。
寒食が終わると清明節となり、新しい火で食事をつくり、また墓参りや郊外へのピクニックなど楽しい行事があったようです。
 

伊賀のシエスタ
 江戸時代後期、文化文政時代に京都に中島棕隠という漢詩人(儒学者)がいた。当時の京都詩壇では頼山陽と並ぶ大物で、大変な才人であったらしい。
 彼が50歳の四月、伊賀に旅した。伊賀上野の儒学者、服部文稼にでも招かれたのだろうか。伊賀上野の町で彼が大変驚いたことには、町中に昼寝の習慣があったことである。
 そこで詩を作っている。

 伊賀の俗、四月八日より八月二日に至るまで、昼寝をもって習例と為す。其の甚だしき者は門を杜(とざ)し幌を下ろし過客を通ぜず。未牌(午後三時頃)の後、漸く起き人事を省す。懶惰の極と謂うべし。今ここに余初めて其の地に遊寓し、鄙僻の俗に感あり。因りて戯れに二絶を賦し、文稼服部教授に示す。

睡郷 古(いにしえ)より浮辞に属す
此の俗 真に入れば 尤も嗤(わら)うべし
為に問う 学中の諸学士
材の朽糞に非らざるは 独り誰と為すや

眠りの郷といえば昔からおとぎ話の中のものと思っていたが、この習俗が本当にあるとすれば笑止千万だ。
崇廣堂の学生諸君に尋ねるが、君たちの中で朽糞の様な人材でないのは誰だね。

崇廣堂:伊賀上野にある藤堂藩の藩校、服部文稼はここの教授だった。
朽糞:孔子が講義をしていたとき、昼寝をしていたものがいた。孔子は云った。「朽ちた木に彫り物はすべきでないし、糞土(質の悪い土)を塗った壁に上塗りをしても仕方がない。」 要するに悪い人材に教育しても無駄という意味。

近ごろ聞く 儒術 風俗を移すと
四境 堕夫 何ぞ太(はなは)だ多し
睡課 満城 皆 斃(たお)るに似たり
青天白日 等閑に過ぐ

近頃は儒教の学問もその地の風俗に従うものと見える。見渡す限りの怠け者、なんと多いことか。
昼寝の日課、町中のみんなが死んでしまったようだ。この青天白日の素晴らしい一刻が無駄に過ぎようとしている。

 中島棕隠は諸国を遊歴した人ですが、その彼が大変奇異に感じているところを見ると他の地方ではあまり見られない風習だったのでしょうか。当時の伊賀は津の藤堂藩の一部だったのですが、この風習はこの地に限ったことだったのでしょうかね。それにしても学校まで昼寝の時間があったとはね。保育園の様ですね。崇廣堂は今も建物が残っていますが、広い庭の中にあり風がよく通って昼寝には絶好の場所です。
 棕隠は伊賀人はみな怠け者だと大変憤慨していますが、スペインのシエスタの習慣が日本の一地方にあったというのは面白いですね。
 私は現在伊賀上野で仕事をしていますが、同僚にそういう習慣が今も残っているかと聞いてみましたが、誰も知らないようです。

参考図書:詩集 日本漢詩12 棕隠軒集 汲古書院 
 

聴講生 -七十の手習い-
 もう少し漢詩や中国古典文学を勉強したいと思い立ち、この四月から自宅近くの大阪大学文学部に聴講生として通っている。正式には科目等履修生というが、面倒なので聴講生と呼ぼう。
 文学部は大阪大学豊中キャンパスにあり、我が家から自転車で10分ほどとごく便利なところである。また五十年前、小生が教養部の2年間を過ごしたところである。
 また学生となってキャンパス内を回ってみると昔とは大分違っている。まず学生が一杯だ。昔と比べて三倍くらいはいる感じである。学生の群れの中に混じると年寄りは若さに酔ってしまうというか、周りがまぶしい様に感じる。
 昔はゆったりとしていた敷地も今は建物がぎっしりと建っていて、もう新設の余地はないぐらいだ。昔の建物といったら入り口にある旧浪速高校時代からあるイ号館だけのようだ。
 また、食堂、売店などの施設の充実も驚くばかりだ。食堂もいろいろバラエティに富んでいて、美味しい。思い出すのは50円のトンカツ定食だ。脂身が半分以上のトンカツとわずかばかりのキャベツ、昔はこんなもので満足していたのだ。
 図書館も蔵書は10倍以上になっているのではないかな。ここでは一日ゆっくりと読書が楽しめそうだ。
 生協書籍部は当今の学生の書籍離れのせいか、それほど大きくはないが、生協組合員は10%引きだとのこと。そういえば脱会した覚えはないからまだ組合員の資格があるのではと調べてもらうと、たしかに出資金300円は返還されていないが、今は9000円の出資が必要なので8700円追加出資させられてしまった。
 肝心の授業の方はまだ数回しか受けていないので、もう少し経ってから書こう。

カプセルホテル
 先日、奥秩父を縦走したとき、大阪を夕方出発して東京で一泊した。以前はよく夜行列車を利用していたのだが、山行きなどに利用できるものはなくなった。急行「銀河」がなくなったのももうだいぶ前になる。
 時間を有効利用するためには、前夜に登山口、あるいはそこに早朝到達できる地点で一泊するのがいい。今回は青梅線奥多摩駅が出発なのだが、大阪で仕事を終えて奥多摩まで入るのはちょっと難しい。こちら方面に行くのなら、新宿が適当かと新宿で宿を探すことにした。夜の11時過ぎに入って、朝5時には出るのだからちょっと眠るだけだ。
 インターネットで新宿駅近辺の宿泊施設を検索すると、真っ先に出てきたのがカプセルホテルだった。宿泊費の安い順に出てきたのだろう。一泊2,300円。これは安い。しかも、新宿駅のすぐ傍だ。
 私は今までカプセルホテルなるものに泊まったことがない。以前、ちょっと名の知れた人がカプセルホテルで急死したと新聞記事に載ったことがあった。それを読んでこれはかっこ悪いなと思った。しかし、無名の老人がどこで急死しようと殺人や事故でない限りニュースになるはずがない。一度泊まってみよう。
 深夜といっても新宿は不夜城だ。人混みの中をウロウロしてホテルの前に辿り着く。ホテルとは思えない小さなビルだ。すぐ近くは歌舞伎町か。
 狭いフロントは、大きなスーツケースを持ったサラリーマン風の若者(出張費を浮かしているのかな)、バックパッカーの外人などで結構混んでいる。金を払ってロッカーの鍵をもらう。カプセルには鍵がかからないらしく、荷物はロッカーに入れる。大きなものは棚に積んでおくようだ。私のリュックサックは辛うじてロッカーに押し込めることが出来た。傍では若いサラリーマンが下着姿でスーツケースを拡げて着替えを出している。すぐ隣が浴場なのでここは脱衣場も兼用だ。女性には専用のフロアがあるようだ。
 風呂はなかなか気持ちがよい。
 談話室を覗いてみると、10人ほどノートパソコンに向かっている。ちょっとした食事も出来るようだ。
 さて、いよいよ番号を頼りにギッシリと二段に並んだカプセルのなかから自分のカプセルを探す。もぐり込む前にまず非常口のチェック。緊急時以外は開けてはいけないようなので外部の様子はわからない。周りのカプセルはほとんど満室のようだ。いざというときに若者がみんな一斉に非常口に殺到するとなると、私のような老いぼれははじき飛ばされてきっと逃げ遅れるな。
 カプセルに潜り込む。縦横1メートル、奥行き2メートルほどで、狭い一人用テントで寝慣れている私にとっては、オッ、けっこう広いやんか、と感じる。テレビも付いている。JRの二段寝台よりは快適だ。入り口にはドアはなくて、カーテンを下ろして外から見えないようにする。プライバシーとか、セキュリティはビジネスホテルに比べるべくもない。
 夜中、周りはいびきの合唱だ。私も合唱隊に加わっていたかも。
 早朝、ホテルを出ると、5時前だというのに結構な人通りだ。もうラーメン屋などの食堂も何軒か営業している。さすが東京やなー。
ウクライナ問題
 少し話題が古くなりましたが、3月にベトナム旅行したとき、ホテルではCNNのニュースを見ていたのだが、連日マレーシアの航空機事故とウクライナとロシアの間で起きたクリミア紛争の二つだけしか放送されていなかった。
 クリミアに関してはうやむやの内になんだかロシアに併合されてしまいそうで、問題はウクライナ東部での紛争に移ってきているようだ。
 オバマ大統領やEU諸国のトップはロシアを非難して経済制裁を加えようとしているが、世界の一般世論はあまりロシアに対して憤激しているようには見えない。日本などは対岸の火事でどうでもいいという感じだ。
 そもそもクリミアは昔からロシアの領土だったようだが、ウクライナ系ロシア人のフルチショフがウクライナに帰属を変更した。まあ、当時はロシアとウクライナが分離するなどとは考えもしなかっただろうから、フルチショフもどちらでも大した違いは無いと考えたのだろう。その後、ソビエト連邦が解体しても、ウクライナがロシアと強い同盟関係にあるならばロシアとしてもクリミアの帰属がウクライナにあっても良かったのであろう。 それが今度の政変で親ロシアの大統領が追い出され、ウクライナがますますEUに近づこうとした。さあ、プーチンは困った。なにせ、クリミアにはロシア海軍の黒海艦隊の基地があるし、ロシア系住民が過半数を占める。クリミアのロシア系住民が中央のウクライナ系政権に反旗を翻したなら、プーチンとしては支持せざるを得ないだろう。
 現ウクライナ政権が、クーデターまがいの政権奪取をしたのは国内事情としても、あまりに性急にロシアから離れようとしすぎたのではないか。国内にウクライナ人とロシア人が混在しており、エネルギーをロシアに頼っている状態では過激な政策は採れない。ロシアとEUの間にあって上手く立ち回らなければならないのが、ウクライナの置かれた地政学的立場だ。今回の事態を招いた責任の大半はウクライナの現政権にあると思われる。
 世界の世論はそれを感じているのではないだろうか。

ベトナム旅行の印象
 3月中旬、10日間ほどベトナム観光のツアーに参加してきました。ハノイに入り、市内観光、ハロン湾見物などして、中部地方のフエ、ホイアンを見て、ホーチミン市で市内観光、クチ、メコン川などを観光する旅でした。
 ベトナムは食べ物が美味しいと聞いていたのですが、十日もいるとさすがに食べ飽きてきますね。フォーは軽くて美味しいので毎朝朝食バイキングで食べていたのですが、そのほかの食べ物は揚げ物が多くてうんざりしてきました。海鮮物は新鮮なようですが、生で食べる習慣がなく、あまり新鮮さを感じませんでした。ホーチミン市では添乗員が気を利かして日本料理店に連れて行ってくれたのですが、これがひどいものでした。焼き物は鮎の塩焼き。鮎は大好きな魚やけど、何が悲しくてまずい養殖の冷凍物をベトナムで食べなあかんのや。天ぷらには鮭が入っていた。ベトナムで鮭とはね。まあこれでも何年かベトナムに滞在していると有難い気持ちになるのでしょうかね。
 ベトナム観光の全体の印象としては、世界遺産も多くそれなりに美しいのですが、圧倒的に感動するような風景はなかったですね。快いけれども淡い印象の旅でした。
 今回の日程ではハロン湾観光が3時間クルーズと一番短いコースなのが不満だったのですが、実際見てみるとこれで十分かと思いました。ハロン湾は「海の桂林」と呼ばれているようですが、まあ実際の桂林を見たことがあるとちょっと負けているという気がしました。
 ホイアン近くのミーソン遺跡にしても、こぢんまりとしている上、ベトナム戦争による破壊がひどく、お隣のアンコールワット遺跡という超A級世界遺産を見たことがあると所詮B級かなという感じでした。
 そんななかで一番印象に残っているのは、大都会のバイクの群れとその中を悠々と横断する歩行者たち。この喧噪と活気に溢れる光景が、日本のホンダ、ヤマハなどのオートバイメーカーが作り上げたものだと思うと感無量でした。それとハノイ、ホーチミン郊外の水田風景、太古から変わらぬ光景でしょう。町の市場の活気溢れる光景も好かったですね。 
 もうこの歳で10日以上の旅は体にこたえるようになってきています。

PM2.5
 中国のPM2.5汚染がひどいようだ。汚染物質の粒子が2.5µm以下と非常に細かいため気管支の奥まで容易に浸透でき、喘息などの呼吸器疾患を起こしやすい。
 この冬は特に深刻なようだ。数年前の秋、北京を訪れたがそのときでも空気が悪いと感じた。中国の古典が好きなもので何度か中国を訪れたが、対日感情もそうだが、空気もこうひどいとちょっと中国へ行く気はしない。
 2月になって、PM2.5が日本に飛来して各地で許容濃度を超えているらしい。日本で対策が取れないので始末が悪い。
 しかし、この汚染は先進国が過去に辿ってきた道ではなかったのか。産業革命時のイギリスの大都市、ロンドンの状態もひどかったようだ。
 日本でも昭和30年代の公害問題もひどかった。四日市喘息も当時はPM2.5などという用語はなかったと思うが、本質は同じではないのだろうか。小生が昭和37年大学入学のため初めて大阪に出てきたとき、列車から見た尼崎辺りの煙突から出る煤煙のひどさには恐れをなした。大阪市内でもスモッグに覆われて昼なおくらい状態がたびたび起こっていた。それと市内を流れる川のひどかったこと。夏、阪急電車が神崎川を渡るとき窓を開けていられないほど悪臭がただよっていた。大学の傍の旧淀川、土佐堀川でも悪臭がわき上がっていた。
 それが何時の頃からか、だんだん改善されてきた。スモッグがなくなって空気が綺麗になったと思ったら、今度は光化学スモッグ。それもだんだん少なくなってやっと綺麗な空気や水を国民が享受できるようになったのだ。それには、国や産業界、言論界、国民など国を挙げての長い努力が実を結んだといえる。
 中国を初めとして開発途上国は産業の発展、国民の生活向上によって、国民一人当たりのエネルギー使用量が飛躍的に増加した。先進国は今まで培ってきた技術によって、開発途上国を援助して地球環境を守ることが必要だろう。

2013年回顧と今年の抱負

 先日、山好きの同僚が部屋にフラリと現れて、年末年始はテントを担いで3週間ほどパタゴニアを個人旅行するという。うーん、悔しい。先を越された。
 
 昨年は海外旅行は一回。春のカンチェンジュンガ展望トレッキングツアーのみだった。このときの同行者の中には世界の8000m峰をすべて見るのを目標にしている人がいたが、小生はヒマラヤはこれで充分な気がする。海外旅行は個人での放浪の旅が理想だが、伴侶がいるのでこれは夢に終わるだろう。
 古稀を迎えて、山登りの方はあと数年だろう。泊まりがけの山は冬の蓼科山、残雪期の比良山系と越後の山々、夏の八ヶ岳縦走、秋の海山駒ヶ岳と籾糠山ぐらいだった。あと心に残ったのはやはり花の山だ。大台ヶ原のシロヤシオ、西赤石山のアケボノツツジ、籾糠山(天生湿原)のサンカヨウなどだ。
 サイクリングは山よりは少し長く続けられるかもしれない。昨年はテントを積んでのサイクリングは鳥取の人形峠と中国脊梁山脈縦走ぐらいだった。これは秋の週末に天候不順が続いたせいもあって、予定の中止が続いた。勤務先の伊賀の山野はもう走り尽くした。

 これからは体力を使わない趣味に力を入れなければならないのだろうが、これとても、さていつからボケが始まることやら。
 漢詩の作詩はだんだん詩想が尽きてきて、出来るものはなんか前に詠んだものに似たものばかりである。まあ、これは頑張って年30首を目標にしよう。私レベルでは独創よりも摸倣が大事なので、そのためには詩集を多読することが大事なのだろう。それとどこかで高いレベルの講義でも受講してみたいとも思っている。
 もうひとつの趣味、書道であるが現在の米芾の臨書をもう一年続けることにした。米芾の多彩な筆法を充分に会得したという感じがしないからである。月に一日か二日しか筆を執っていないのでは進歩は望めないので、もう少し力を入れたい。それに小字や仮名も少しは書けるようになりたいものである。先日、渡部大語先生に伺った話では、独創的な現代書道でもやはりいいと思う書の摸倣から入ってゆき、自分独自の書法を完成させるものらしい。