なんば歩き (Dec)
私の受けた日本史の講義 「井上薫教授」(Nov)
帆船軍事小説 (Oct)
新しい漢詩集 (Sept)
捕鯨 (Aug)
曜変天目 (June)
干支 (May
)
鬱陶しいお隣さん-韓国- (Apr)
今年の臨書 嵯峨天皇「李嶠詩」 (Mar)

e-バイク (Feb)
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なんば歩き
 先日、NHKテレビで伊能忠敬のドキュメンタリーがあった。それによると彼が江戸から蝦夷地までの測量を始めたのは55歳の時で当時の感覚ではもう老境に入っていたと云える。十名足らずのグループで、一日40キロぐらい歩いたらしい。今の日本人の感覚から云うと、一日40キロ歩くというと驚異的に感じるが、当時の人々にとっては普通のことだったようだ。私などは30キロがせいぜいかな。
 テレビの話では、江戸時代のヒトは歩き方が現代人と違ったらしい。現代人は手を振って歩く時、右手と左足というように交互に前に出しているが、明治以前のヒトはいわゆるなんば歩きといって、右手と右足というように同側の手足を前に出して歩いていたようだ。そしてこの歩き方が長距離を歩けるコツだとのこと。
 これは試してみる価値はあるな。
 さすがに手を振って歩くとちぐはぐな感じで格好悪いので、手をベルトにかけて歩いてみる。そうすると身体の半身ずつ前に進むので腰をひねって足を出す感じになり、歩幅が大きくなっているような気がする。まさに肩で風を切って歩くというやつだ。慣れればこれはこれで歩きやすい。階段を上る時などは、年寄りはこのなんば歩きをやっているのではないかな。山を登る時もこんな感じだ。
 今はまだ意識をして歩かないとなんば歩きは出来ないので長距離を歩いていないが、これが無意識に出来たらちょっと面白いかもと考えている。

私の受けた日本史の講義 「井上薫教授」
 ちょっと以前の話になりますが、大阪大学関係者で文化功労賞を受けられた東野治之先生の講演を聴く機会があったりました。先生の講演の内容はもうほとんど忘れてしまったが、先生が大阪大学教養部の助教授に就任したとき、その理由一つが井上薫教授が在任していたことだと話された。
 あっ、その先生の授業、受講したことがある。そんな偉い先生だったの?
 1962年、大阪大学に入学した私は、当時の制度では最初の2年間は教養部に在籍して一般教養の講義を受けなければならなかった。学生はその二年間で専門課程に進むために必要な最低の単位を取るだけで、あとはクラブ活動など大いに自由な学生生活を楽しんだのだ。
 理科系学部学生も一般教養として文系の講義も何単位か取得する必要があった。私が真っ先に選んだのが日本史の講義だった。それが井上先生の講義だったのだ。
 子どもの時から日本の歴史が好きだった。当時、漫画日本史などという便利なものはなかったから、神話、合戦、伝記など通俗的な本を断片的に読んだだけであったが。最初の記憶は小学生の時、祖母が土産に買ってきてくれた忠臣蔵の本だ。これにはまった。四十七士の名前は全部覚えた。
 中学、高校の授業も日本史は大好きで、特に勉強せずとも自然に頭に入った。年代を記憶するのだけは苦手だったが。
 井上先生の講義はこれが大学の学問というものかと目から鱗だった。高校までの日本史は結論の出ている事実を教えるだけだったが、この講義では結論が出るまでの過程、或いはまだ結論の出ていないことの諸説を解説してくれた。これは下手な推理小説よりずっと面白い。
 最初の講義はは邪馬台国はどこにあったか。水行陸行の行程の諸説。
 倭の五王、讃・珍・済・興・武の比定。
 法隆寺再建説論争。若草伽藍の発見。
 行基の話。家原寺、土塔など。
 あと何があったかな? 宮城十二門と古代氏族との関係などというのもあったな。
 後は忘れた。それにしても我ながら六十年近く前のことをよく覚えている。よほど面白かったのだろう。
 ネットで調べてみると、井上先生は阪大退官後、堺市博物館館長を長年勤められたようだ。専門は日本古代史、仏教史など。行基に関する著書もあるようだ。 

帆船軍事小説
 表題のようなジャンル分けが適切なのかどうか判らないが、海洋冒険小説の一ジャンルと見なされるだろう。要するに帆船の軍艦が活躍するお話で、主としてナポレオン時代のフランスと対峙したイギリス海軍が主役となる小説がほとんどである。
 この種の小説は欧米ではかなりの愛読者がいるようで次から次へと新しい小説が書かれているようである。日本でも一定の読者がいるようで、時々翻訳が出ている。小生も若い頃、嵌まってしまい夢中になって読みふけったものだ。まあ、今でも新しいものが出ると買ってしまうのだが。
 この分野で初期のもので、しかも今でも最も有名なものはC.S.フォレスター著の「ホーンブロアー シリーズ」であろう。彼のチャーチルも愛読したらしい。内容は平民出身であるホーンブロアーが17歳で海軍士官候補生として海軍に入り、海尉、艦長、提督、男爵とフランス軍と戦いながら出世して行く物語で、波乱万丈の活躍が読者を引きつける。日本ではハヤカワ文庫から全10巻が出版されたが、実に面白く夢中になり、原書まで買ってしまった。
 「ホーンブロアー シリーズ」は欧米のみならず、日本でもヒットしたようで、同様の小説が次から次へと翻訳出版された。まあ、どれもフランス軍との戦いという状況設定は似たようなもので主人公の性格などをどう特徴づけるかで差が出てくる。
 「ボライソー物語」。これもハヤカワ文庫からでたが、20巻以上続き、最後は提督となって戦死するらしいのだが、私は10巻目ぐらいで息が切れてしまった。同じような話で一寸退屈に感じてしまった。
 「ラミジ艦長物語」 主人公は貴族。フリゲート艦(巡洋艦)で痛快な活躍をして、敵の商船を拿捕してタップリ財宝を獲得したりする。フリゲート艦は戦艦に較べて、軽快であり、武装も戦艦ほどではないがそこそこあり、機動性に富んだ活躍が出来る。だいたいどのシリーズでもフリゲート艦長時代が最も面白い気がする。このシリーズは20巻ほど続いた様だが、主人公はほとんどフリゲート艦長であり、ホーブロアーやボライソーの様な人間的成長がない。一巻一巻は面白いのだが、全体としてみれば退屈か。
 「リチャード・デランシー物語」著者はパーキンソンの法則で有名な歴史学者C.N.パーキンソンである。全6巻と比較的短いがストーリーがバラエティに富んでいて面白かった。
 そのほか、オークショット・シリーズ、アラン・リューリー・シリーズなども読んだのだがあまり記憶がない。
 「ジャック・オーブリー・シリーズ」 同乗の軍医・博物学者のマチューリンとのコンビで一寸変わったシリーズだが、ラッセル・クロウ主演で映画化された「マスター アンド コマンダー」がよく出来た映画だった。今まで小説で読んで想像していたフリゲート艦の実情がよく判った。
 「トーマス・キッド・シリーズ」日本で翻訳されたもので最も新しいのではないかな?主人公はイギリスの内陸部のカツラ職人だったが強制徴募されて、下級水兵から海軍生活をスタートさせるのが変わっているが、ホーブロワー以来の正統派シリーズで面白いのだが、近年このジャンルは人気が落ちてきたのか翻訳が中断されている。それで、ペーパーバックで買ってシコシコと読み続けているが、なかなか苦しい。どんどん書き続けられているが、とても追いつかないし少々面白みも低下してきているように感じる。
 時代は大分遡るが、サバティーニ原作の「海賊ブラッド」も通俗小説だが、面白かったな。ペーパーバックで読んだが、翻訳もあるのかな? 
 振り返ってみると、結構読んでいますね。船に乗ると船酔いするし、気が弱くて戦いなどからは真っ先に逃げ出す人間のくせに。
 以上は海軍の物語であったが、当時の陸軍軍人を主人公としたものに「炎の英雄 シャープ」シリーズがある。日本に翻訳されたのは一部であったと思うが、ショーン・ビーン主演のTVドラマがよく知られている。
 日本でこういったものに近い小説で最も面白いのは白石一郎の「海狼伝」「海王伝」だろう。後に和田竜の「村上海賊の娘」が出るが、遙かに及ばない。

新しい漢詩集
 この夏、「禿羊漢詩集 第二集」を作った。魁猿の短歌集との合作である。もう二、三年してから作ろうかと思っていたが、魁猿が大病をして、小生も何時死ぬか判らぬと不安になり急いで作ろうと考えた。まあ、これから先碌な詩も作れないだろうと思うといい潮時かな。これが最後の詩集だろう。第一集の出版が2007年だったから、十二年経っているのか。
 思い返せば、魁猿から短歌集をもらったのが1991年だった。この時はショックだった。彼が短歌を作っていることを全く知らなかったのだ。「なんであいつに短歌が作れるんや」よし、それなら小生は俳句を作ろう。取り敢えず、禿羊と俳号をつけた。それでボチボチと俳句を作り始めたのだが、あるとき何十年と俳句を作っている老女を案内して名水「瓜割の滝」へ行ったとき作った俳句を頂いた。「名水を汲みて長命疑わず」。あっ、これは何年経ってもこんな発想は無理や、俳句は諦めた。
 それから、数年経ってネット上で漢詩を作っているグループと知り合い、作詩を勧められた。昔から漢詩を鑑賞するのは大好きだったが、自分で作れるとは夢にも思っていなかった。しかし作り出してみると、小生の思いを表現するのにピッタリの詩型だと感じ以後日記代わりに作詩を続けている。全くの自己流であるが。
 先の詩集を作ったとき、家内は大分馬鹿にしていたが、ある夜読み始めると一気に読んでしまい、それから友人に配り始めたのでまあまあ認めてくれたらしい。その家内が今回は先の詩集より大分上手になっていると批評してくれたので、一寸気をよくしているところである。

捕鯨
 日本は国際捕鯨委員会から脱退して、今月から商業捕鯨を再開した。私には今の時点で日本政府がどうしてこういう決定をしたのか理解出来ない。一般の国民も多分そうではないかな。
 子どもの頃は鯨肉を結構食べさせられたが、あまり旨かったという記憶は無いし、現在市場に出ている鯨肉などを見ても食べたいとも思わない。現在、日本国民が動物性蛋白は飽食状態で今更鯨肉が市場に出ても一部愛好家を別にすればだれも手を出そうとは思わないのではないだろうか。先進国の大半は捕鯨反対だ。それらの国の非難を押し切って捕鯨を再開する目的は何だろう。どうも理解出来ない。
 勿論、捕鯨反対の主張の大部分はセンチメンタルなものである。同じほ乳類の牛や羊、豚を食べていながら、鯨はダメというのは理屈が立たない。 牛、羊、豚は家畜だから許されるというのなら、野生の鹿や猪、うさぎはどうだ。ジビエと称してみんな喜んで食べているではないか。逆に犬はどうだ。犬は家畜だが、食べている国(地方)はまあ非難の対象となっている。要するに食習慣は文化的なものであって、科学的な根拠があるわけではない。
 そういうことで、私自身は鯨が捕鯨によって絶滅が心配されるので無い限り獲ってもよいとは思うのだが、あまり需要がありそうもないものを無理して獲って、世界から非難を受けるのは割に合わないと思うのだが。

曜変天目
 この春、日本に現存する三つの曜変天目茶碗が同時公開された。一つは静嘉堂文庫の稲葉天目が東京で、藤田美術館所蔵の曜変天目が奈良国立博物館で、大徳寺竜光院のものが信楽のミホミュージアムで展示された。いずれも国宝であり、世界でも完品は日本にあるこの三碗のみである。
  曜変天目は南宋時代、福建省の建窯で焼かれた天目茶碗の一種で内側の黒い釉薬の上に大小の星と呼ばれる斑点(結晶体)が群れをなして浮かび、その周囲を瑠璃色あるいは虹色の光彩が取り巻いている。偶然に出来たものといわれ、古来より抹茶茶碗の最高品として人々を魅了してきた。
 私も東京の静嘉堂文庫で稲葉天目を最初に見たときはその虹色の輝きに息を呑んだ。これは何年かに一度は展示されているようで、上京した機会にもう一度見た。藤田美術館のものも一度見た記憶があるが、稲葉天目ほどの輝きはなかったようであまり印象に残っていない。龍光院の曜変天目もどこかの展覧会で見たように思うがこれもあまり記憶にない。 曜変天目は本当は手に持って陽にかざして見ないと本当の輝きは見られないと思うが、ショウケースの中で見るので照明が上手でないと輝きは見られない。その点、稲葉天目は斑点が大きく派手に輝いているので、条件が悪くとも美しく見られる。
 今度、関西で2つ見られるというので、東京は無理でも生涯最後にもう一度お目にかかるかと家内と出かけた。どちらの会場も大変な人出だ。30分ぐらい行列して、ちょっとショーケースを一巡するだけである。目を凝らしてみると、なるほど曜変の輝きが見られる。
 それにしても、この大勢の人々は何なんだろう。以前見たときはあまり注目されていなくてゆっくり鑑賞出来たと思う。宣伝に乗せられたというか、物見高いというか、暇人が多いというか。周りを見回しても、私を含めてあまり茶の湯なんかに興味なさそうな人ばかりである。小さな子どもまで連れて来ている。
 今回の曜変天目にしても、フェルメール展や、その他の有名画家の展覧会でもどっと人が集まるが、人混みの中でチラッと見て、それが我々の人生で何の意味があるのかなとつくづく考えてしまう。今時、本物を遠くから眺めるより、写真を見る方がよっぽど詳しく鑑賞出来る。


干支
 いよいよ、平成が終わり令和が始まった。しかし私達はもう元号よりは西暦で考える方が自然に頭に入りやすくなっている。おなじ元号の中では西暦と同じように年次を考えられるが、元号が変わると混乱する。例えば大正10年生まれの人が何歳かなどと言われればすぐには判らない。一度西暦に変換するのが一番手っ取り早い。
 それでも、日本では明治以降一世一元の制度が確立して、一つの元号が比較的長く続くようにな便利になったが、それ以前は頻繁に改元が行われた。天変地異が起こるとそれを理由に元号を変えるとか、辛酉革命とか甲子革令とか古代中国の迷信によって改元が行われた。例えば幕末を見てみると、弘化(5年)、嘉永(7年)、安政(7年)、万延(2年)、文久(4年)、元治(2年)、慶応(4年)と猫の目のようにコロコロと改元が行われている。これでは庶民はたまったものではない。当時、西暦は利用されていなかったしね。
 元号を使って年次を考えるのが困難だとしたら、当時の人はどうやっていたのだろうか。それは多分干支(えと)を使って考えていたのだろう。
 十干と十二支の組み合わせである。現在の人でも当然十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)は知っているが、十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は殆どの人が利用することはないだろう。昔は歴史上の事件にも使われていますよね。壬申の乱とか、甲子園などとか。因みに私自身は癸未(みずのとひつじ)の生まれである。
 十干と十二支の組み合わせれば10と12の最小公倍数60年が数えられる。60年経てば還暦となってまた元の干支に戻るのだが。
 私の父母の年代ではもう無理だったが、祖父母(明治生まれ)の年代ではこれで年次がピンときていたようだ。「あんた、きのととり(乙酉)の生まれか、今年51歳じゃな。」というような会話がすぐに出来たようである。
 従って、昔の人はコロコロ変わる元号などには頼らずに干支を使っていたのではないだろうか。漢文や漢詩では百年というと人の一生を意味するが、それぐらいの年次のことは干支で考えることが出来ただろう。まあ何百年昔といった歴史上のことは無理だったろうが、そんな昔の正確な年次が一般庶民の日常生活に必要はなかっただろう。大昔とか、三百年ぐらい前とかいう表現で充分だったろう。
 さて、私も老いぼれてきて、十干はおろか十二支の方も今年はなにどしかは年末年始に気にするぐらいである。西暦だってふと度忘れするもの。

鬱陶しいお隣さん-韓国-
 このところ韓国との軋轢がひどくなってきた。どちらの国民も相手の国民自体に大した反感はないのだが、その間に国家が絡んでくると互いの反感がひどくなる。今のところ日本からの積極的な作用はないが、韓国が仕掛ける作用(慰安婦、徴用工問題など)にたいして反作用としての行動の要求が高まっている。現在の日本の実力からしたら、韓国をギャフンと言わせることは簡単にできるのだろうが、そうしたところで韓国国民に深い怨念を生むだけで根本的な解決にはならないだろう。お互い引っ越しして距離を置くことが不可能な以上、何とか折り合いをつけなければならない。
 だいたい隣国どうしというのは、紛争の種が多いのが普通だろうが、日本と朝鮮の間には併合の過去が後を引いている。李氏朝鮮時代の長い社会的停滞はイサベラ・バードの「朝鮮紀行」を読むと明らかだが、当時の世界情勢の中で独立を保つのは困難な状況だったのだろう。朱子学の思想に染まった当時の朝鮮の知識層から見ると、中華圏のヒエラルキーの中で日本は野蛮な目下の存在であり、そこに吸収されることは我慢がならないことだったのではないか。それが現在でも尾を引いており、韓国の報道を読むととにかく順位付けが好きで何かにつけ日本と比較して、勝った勝ったと溜飲を下げている気がする。それはやはり現在は全体的に見て日本に負けているという意識があるからだろう。
 将来にわたってお互いが友好的な関係を続けて行くには、韓国が日本に負けていないという自信をつけることが大事なのではないか。そのためには南北統一を目指して豊かな国になろうとするのは基本的には正しい方向だと思う。日本としても中国やロシアとの間に民主的で平和な統一された大国が存在することは望ましい。でも、いまの金正恩の北朝鮮と一緒になるのはダメだよ。いずれ金王朝は崩壊するのだろうが、その時どんな政権が誕生するのか。その時、南北合併の話が進むのだろうが、中国の干渉を退けて平和な民主国家の設立することは並大抵のことではないと思われる。まあ百年の大事業だ。
 本当にそういう国が出来るのなら、竹島ぐらいは御祝いにあげてもいいと思うよ。中国、ロシアが強力な核兵器を持っている以上、もう一つ小さな核保有国があっても友好的であるならば大したことはない気がする。  

今年の臨書 嵯峨天皇「李嶠詩」
 2018年回顧にもちょっと書いたが、今年の臨書は嵯峨天皇の「李嶠詩」を習っている。嵯峨天皇と言えば空海、橘逸勢と並んで日本三筆の一人として知られている。「李嶠詩」自体はどうも嵯峨天皇の真筆ではないらしいが、古来名筆として伝えられている。正しくは「李嶠雑詠残巻」と呼ばれ、唐の詩人・李嶠の詩を書写したもので詩の資料としても貴重なものらしい。
 さて、第一回の手本が送られてきて、先生から山馬筆か、それに近い硬い筆で書くようにと指示があった。しめた、昨年の独り言「今年の臨書-隷書」にも書いたが、山馬筆は一本持っている。去年はこれで書いた隷書が大変誉められた。この筆は大好きだ。
 山馬筆はバサバサして筆先をまとめにくいが、勢いよく書けあまり細かな運筆を気にしなくてもよい(本当かな?)ので、下手な者むきだ。
 出来はこの通りで、自慢出来るほどにはなっていない。まだ、2回目なので、これから徐々に腕を上げて行きたいと思っている。


 ちょっと嵯峨天皇について調べてみたが、桓武天皇の皇子で兄・平城天皇の後を継いで、第52代天皇となり、以後天皇、上皇として数十年にわたり平和な治世と文化的な隆盛を築き上げた名君であった。その皇后がかの檀林皇后で、生前は超美人であったが、死後みずからの遺体を路傍に棄てさせ、腐乱して骨になって行く様を人々
に見せて、世の無常を知らしめたという。ちょっと気持ち悪いというか、勇気有るというか。

e-バイク
 e-バイクとは、電動アシストスポーツバイクのことである。要するに、今までのロードバイクとかクロスバイクにバッテリーとモーターを付けて走るようにしたもので、ヨーロッパから始まって近年日本でも人気が出つつある。スポーツバイクは軽いのが取り柄の一つであったが、バッテリーとモーターが付くので必然的に重くなる。その辺の兼ね合いがe-バイクのこれからの課題なのだろう。
 小生も昨年秋に一台買った。今までクロスバイクを2台持っていて、一台はカーボンフレームのバイクで主に輪行用に、もう一台はアルミ製でタイヤも太めで悪路や日常の街乗りに使っていた。ところが、昨年の夏、中学2年の孫が遊びに来て一緒に自転車に乗ったのだが、今まで子供用の自転車に乗っていたのだが、アルミ製の街乗り自転車を使わせるとちょっと踏むと軽くスピードが出て大変走りやすいと大感激して、取られてしまった。ブリジストン製で安物ではなかったが、孫に望まれると否やはない。お陰で小生、息子、孫と三代でしまなみ海道サイクリングが出来て大満足だった。
 さて、小生も一台では不十分なので追加しなければならない。それでe-バイクに目を付けた。現時点では、普通のクロスバイクで不自由なく山道やそこそこの急坂も登って行ける。しかし、後期高齢者になってこれから体力が衰える一方だろう。衰えてゆく体力分は電動に助けてもらおう。
 e-バイクをいろいろ調べてみると、なかなか帯に短し襷に長しでピッタリの物が見つからない。まず、出来るだけ軽い物で、電源を切っても普通のスポーツバイクとして走れる物が欲しい。
 この条件で探すと、第一候補としてヤマハのYPJシリーズが上がった。クロスバイクとしての性能はそれほど優れたものではないが、小生程度のサイクリストのはあまり上等な物は要らない。重さも16kgとまあ許される程度だ。問題は軽さを実現するためにバッテリーが小さい。600g程度でと軽いが、当然走行距離が短い。付けっぱなしで走ると高アシストでは14km、低アシストで50km弱である。しかし、現在のところ別にアシストなしでも走れるのだから、いよいよの急坂でのみアシストしてもらうとすれば充分に使えるのではないか。これにしよう。値段は今持っているカーボンのTrekよりは大分安い。
 大分待たされて、秋の終わりになってやっと入手出来た。我が家は丘陵地帯の上にあり、坂道が多い。家の周りを走ってみると、坂道が感激的に楽に登れる。これはほとんど麻薬だな。電動オフにして走る気になれない。家の周りはこれで走り回っている。長距離のサイクリングは能勢丘陵を越えて亀岡市までの往復70kmだけだが、ほとんど電源オフで走った。全然使わないのもアホらしいので、最後の急坂だけは使ってみたがやっぱりスイスイ登れた。100kmぐらいのサイクリングは楽に出来る感じだ。 
 さて、この自転車にテントを積んで遠出の輪行をするかどうかだが、輪行袋に入れて担ぐのはちょっと躊躇している。当分はカーボンのTrekを使おう。
 

2018年回顧
 昨年は天候が不順で、災害も多かった。夏は大変暑かったし、台風21号もひどかった。屋根瓦が飛ぶやら、カーポートが潰れて車の屋根がへっこむやら大変だった。
 世界の情勢もザワザワとして決して平和な状態ではないが、これは市井の一個人が心配しても仕方のないこと。韓国との関係はまあしょっちゅう文句を言ってくるお隣さんがいて不愉快だといった程度のことでしょう。
 さて、個人的にはなんやかやで充分に遊んだという気がしないが、まず今年目出度くも後期高齢者となった。とたんに免許更新で認知テストを受けた。ちょっとドキドキしたが無事通過。二ヶ月後に一時停止違反をやってまた認知テスト。同じ問題だった。
 海外旅行は3月に台湾旅行に行った。特別なこともない普通の海外旅行だった。年初の予定では、スエーデンの「王様の散歩道」を行こうと考えていたのだが、何となくタイミングを逸したというか、あまり行く気がなくなった。平らな道を歩くだけのようだし、虫が多そうだし。
 一泊以上の山行は、6月「別子銅山・笹ヶ峰・平家平」、7月「谷川岳・平標山縦走」、9月「苗場山と切明温泉-野反湖」、一泊以上のサイクリングは8月の「日本縦断サイクリング・東北補遺」、これは念願の川原毛地獄の大湯滝に入れたので満足満足。それと孫を連れてしまなみ海道をチョコッと走っただけだった。
 そのほかは、ちょっとした日帰りのハイキングやサイクリングがあっただけ。今年の夏は心臓に不安を感じて、いろいろ検査を受けたのでその結果が出るまで活動を控えたこともあった。
 大学の課目外履修生(聴講生)ももう5年目になる。今は週三回90分の授業を受けている。蘇軾の輪講、陸游の輪講、もう一つはモンゴル史の輪講。これが無茶苦茶難しい。全然ついて行けない。私は聴くだけの出席であるが、これを難なくこなしている学生さんは偉いなとつくづく思う。
 漢詩は相変わらず。年に20首程度のペースであろうか。
 書道は今年は隷書を習った。それも木簡隷という、敦煌などで出土した木簡に当時の無名の書記が書いたものであるが、 なかなか素朴で面白いが一年も書いていると少々厭きてきた。それで今年はまた行書に戻って、嵯峨天皇の書を臨書することになった。これは骨だぞ。
 そろそろ断捨離だ。屋根裏のがらくたを整理しなければと、第一弾としてカヤックを処分した。さすがに心残りだったが、クレッパーの名前の効いたのか四十年以上の古物だったがオークションで引き取り手があった。かわいがってくれればよいが。