新しい漢詩集 (Sept)
捕鯨 (Aug)
曜変天目 (June)
干支 (May
)
鬱陶しいお隣さん-韓国- (Apr)
今年の臨書 嵯峨天皇「李嶠詩」 (Mar)

e-バイク (Feb)
2018年回顧 (Jan)

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新しい漢詩集
 この夏、「禿羊漢詩集 第二集」を作った。魁猿の短歌集との合作である。もう二、三年してから作ろうかと思っていたが、魁猿が大病をして、小生も何時死ぬか判らぬと不安になり急いで作ろうと考えた。まあ、これから先碌な詩も作れないだろうと思うといい潮時かな。これが最後の詩集だろう。第一集の出版が2007年だったから、十二年経っているのか。
 思い返せば、魁猿から短歌集をもらったのが1991年だった。この時はショックだった。彼が短歌を作っていることを全く知らなかったのだ。「なんであいつに短歌が作れるんや」よし、それなら小生は俳句を作ろう。取り敢えず、禿羊と俳号をつけた。それでボチボチと俳句を作り始めたのだが、あるとき何十年と俳句を作っている老女を案内して名水「瓜割の滝」へ行ったとき作った俳句を頂いた。「名水を汲みて長命疑わず」。あっ、これは何年経ってもこんな発想は無理や、俳句は諦めた。
 それから、数年経ってネット上で漢詩を作っているグループと知り合い、作詩を勧められた。昔から漢詩を鑑賞するのは大好きだったが、自分で作れるとは夢にも思っていなかった。しかし作り出してみると、小生の思いを表現するのにピッタリの詩型だと感じ以後日記代わりに作詩を続けている。全くの自己流であるが。
 先の詩集を作ったとき、家内は大分馬鹿にしていたが、ある夜読み始めると一気に読んでしまい、それから友人に配り始めたのでまあまあ認めてくれたらしい。その家内が今回は先の詩集より大分上手になっていると批評してくれたので、一寸気をよくしているところである。

捕鯨
 日本は国際捕鯨委員会から脱退して、今月から商業捕鯨を再開した。私には今の時点で日本政府がどうしてこういう決定をしたのか理解出来ない。一般の国民も多分そうではないかな。
 子どもの頃は鯨肉を結構食べさせられたが、あまり旨かったという記憶は無いし、現在市場に出ている鯨肉などを見ても食べたいとも思わない。現在、日本国民が動物性蛋白は飽食状態で今更鯨肉が市場に出ても一部愛好家を別にすればだれも手を出そうとは思わないのではないだろうか。先進国の大半は捕鯨反対だ。それらの国の非難を押し切って捕鯨を再開する目的は何だろう。どうも理解出来ない。
 勿論、捕鯨反対の主張の大部分はセンチメンタルなものである。同じほ乳類の牛や羊、豚を食べていながら、鯨はダメというのは理屈が立たない。 牛、羊、豚は家畜だから許されるというのなら、野生の鹿や猪、うさぎはどうだ。ジビエと称してみんな喜んで食べているではないか。逆に犬はどうだ。犬は家畜だが、食べている国(地方)はまあ非難の対象となっている。要するに食習慣は文化的なものであって、科学的な根拠があるわけではない。
 そういうことで、私自身は鯨が捕鯨によって絶滅が心配されるので無い限り獲ってもよいとは思うのだが、あまり需要がありそうもないものを無理して獲って、世界から非難を受けるのは割に合わないと思うのだが。

曜変天目

 この春、日本に現存する三つの曜変天目茶碗が同時公開された。一つは静嘉堂文庫の稲葉天目が東京で、藤田美術館所蔵の曜変天目が奈良国立博物館で、大徳寺竜光院のものが信楽のミホミュージアムで展示された。いずれも国宝であり、世界でも完品は日本にあるこの三碗のみである。
  曜変天目は南宋時代、福建省の建窯で焼かれた天目茶碗の一種で内側の黒い釉薬の上に大小の星と呼ばれる斑点(結晶体)が群れをなして浮かび、その周囲を瑠璃色あるいは虹色の光彩が取り巻いている。偶然に出来たものといわれ、古来より抹茶茶碗の最高品として人々を魅了してきた。
 私も東京の静嘉堂文庫で稲葉天目を最初に見たときはその虹色の輝きに息を呑んだ。これは何年かに一度は展示されているようで、上京した機会にもう一度見た。藤田美術館のものも一度見た記憶があるが、稲葉天目ほどの輝きはなかったようであまり印象に残っていない。龍光院の曜変天目もどこかの展覧会で見たように思うがこれもあまり記憶にない。 曜変天目は本当は手に持って陽にかざして見ないと本当の輝きは見られないと思うが、ショウケースの中で見るので照明が上手でないと輝きは見られない。その点、稲葉天目は斑点が大きく派手に輝いているので、条件が悪くとも美しく見られる。
 今度、関西で2つ見られるというので、東京は無理でも生涯最後にもう一度お目にかかるかと家内と出かけた。どちらの会場も大変な人出だ。30分ぐらい行列して、ちょっとショーケースを一巡するだけである。目を凝らしてみると、なるほど曜変の輝きが見られる。
 それにしても、この大勢の人々は何なんだろう。以前見たときはあまり注目されていなくてゆっくり鑑賞出来たと思う。宣伝に乗せられたというか、物見高いというか、暇人が多いというか。周りを見回しても、私を含めてあまり茶の湯なんかに興味なさそうな人ばかりである。小さな子どもまで連れて来ている。
 今回の曜変天目にしても、フェルメール展や、その他の有名画家の展覧会でもどっと人が集まるが、人混みの中でチラッと見て、それが我々の人生で何の意味があるのかなとつくづく考えてしまう。今時、本物を遠くから眺めるより、写真を見る方がよっぽど詳しく鑑賞出来る。


干支
 いよいよ、平成が終わり令和が始まった。しかし私達はもう元号よりは西暦で考える方が自然に頭に入りやすくなっている。おなじ元号の中では西暦と同じように年次を考えられるが、元号が変わると混乱する。例えば大正10年生まれの人が何歳かなどと言われればすぐには判らない。一度西暦に変換するのが一番手っ取り早い。
 それでも、日本では明治以降一世一元の制度が確立して、一つの元号が比較的長く続くようにな便利になったが、それ以前は頻繁に改元が行われた。天変地異が起こるとそれを理由に元号を変えるとか、辛酉革命とか甲子革令とか古代中国の迷信によって改元が行われた。例えば幕末を見てみると、弘化(5年)、嘉永(7年)、安政(7年)、万延(2年)、文久(4年)、元治(2年)、慶応(4年)と猫の目のようにコロコロと改元が行われている。これでは庶民はたまったものではない。当時、西暦は利用されていなかったしね。
 元号を使って年次を考えるのが困難だとしたら、当時の人はどうやっていたのだろうか。それは多分干支(えと)を使って考えていたのだろう。
 十干と十二支の組み合わせである。現在の人でも当然十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)は知っているが、十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は殆どの人が利用することはないだろう。昔は歴史上の事件にも使われていますよね。壬申の乱とか、甲子園などとか。因みに私自身は癸未(みずのとひつじ)の生まれである。
 十干と十二支の組み合わせれば10と12の最小公倍数60年が数えられる。60年経てば還暦となってまた元の干支に戻るのだが。
 私の父母の年代ではもう無理だったが、祖父母(明治生まれ)の年代ではこれで年次がピンときていたようだ。「あんた、きのととり(乙酉)の生まれか、今年51歳じゃな。」というような会話がすぐに出来たようである。
 従って、昔の人はコロコロ変わる元号などには頼らずに干支を使っていたのではないだろうか。漢文や漢詩では百年というと人の一生を意味するが、それぐらいの年次のことは干支で考えることが出来ただろう。まあ何百年昔といった歴史上のことは無理だったろうが、そんな昔の正確な年次が一般庶民の日常生活に必要はなかっただろう。大昔とか、三百年ぐらい前とかいう表現で充分だったろう。
 さて、私も老いぼれてきて、十干はおろか十二支の方も今年はなにどしかは年末年始に気にするぐらいである。西暦だってふと度忘れするもの。

鬱陶しいお隣さん-韓国-
 このところ韓国との軋轢がひどくなってきた。どちらの国民も相手の国民自体に大した反感はないのだが、その間に国家が絡んでくると互いの反感がひどくなる。今のところ日本からの積極的な作用はないが、韓国が仕掛ける作用(慰安婦、徴用工問題など)にたいして反作用としての行動の要求が高まっている。現在の日本の実力からしたら、韓国をギャフンと言わせることは簡単にできるのだろうが、そうしたところで韓国国民に深い怨念を生むだけで根本的な解決にはならないだろう。お互い引っ越しして距離を置くことが不可能な以上、何とか折り合いをつけなければならない。
 だいたい隣国どうしというのは、紛争の種が多いのが普通だろうが、日本と朝鮮の間には併合の過去が後を引いている。李氏朝鮮時代の長い社会的停滞はイサベラ・バードの「朝鮮紀行」を読むと明らかだが、当時の世界情勢の中で独立を保つのは困難な状況だったのだろう。朱子学の思想に染まった当時の朝鮮の知識層から見ると、中華圏のヒエラルキーの中で日本は野蛮な目下の存在であり、そこに吸収されることは我慢がならないことだったのではないか。それが現在でも尾を引いており、韓国の報道を読むととにかく順位付けが好きで何かにつけ日本と比較して、勝った勝ったと溜飲を下げている気がする。それはやはり現在は全体的に見て日本に負けているという意識があるからだろう。
 将来にわたってお互いが友好的な関係を続けて行くには、韓国が日本に負けていないという自信をつけることが大事なのではないか。そのためには南北統一を目指して豊かな国になろうとするのは基本的には正しい方向だと思う。日本としても中国やロシアとの間に民主的で平和な統一された大国が存在することは望ましい。でも、いまの金正恩の北朝鮮と一緒になるのはダメだよ。いずれ金王朝は崩壊するのだろうが、その時どんな政権が誕生するのか。その時、南北合併の話が進むのだろうが、中国の干渉を退けて平和な民主国家の設立することは並大抵のことではないと思われる。まあ百年の大事業だ。
 本当にそういう国が出来るのなら、竹島ぐらいは御祝いにあげてもいいと思うよ。中国、ロシアが強力な核兵器を持っている以上、もう一つ小さな核保有国があっても友好的であるならば大したことはない気がする。  

今年の臨書 嵯峨天皇「李嶠詩」
 2018年回顧にもちょっと書いたが、今年の臨書は嵯峨天皇の「李嶠詩」を習っている。嵯峨天皇と言えば空海、橘逸勢と並んで日本三筆の一人として知られている。「李嶠詩」自体はどうも嵯峨天皇の真筆ではないらしいが、古来名筆として伝えられている。正しくは「李嶠雑詠残巻」と呼ばれ、唐の詩人・李嶠の詩を書写したもので詩の資料としても貴重なものらしい。
 さて、第一回の手本が送られてきて、先生から山馬筆か、それに近い硬い筆で書くようにと指示があった。しめた、昨年の独り言「今年の臨書-隷書」にも書いたが、山馬筆は一本持っている。去年はこれで書いた隷書が大変誉められた。この筆は大好きだ。
 山馬筆はバサバサして筆先をまとめにくいが、勢いよく書けあまり細かな運筆を気にしなくてもよい(本当かな?)ので、下手な者むきだ。
 出来はこの通りで、自慢出来るほどにはなっていない。まだ、2回目なので、これから徐々に腕を上げて行きたいと思っている。


 ちょっと嵯峨天皇について調べてみたが、桓武天皇の皇子で兄・平城天皇の後を継いで、第52代天皇となり、以後天皇、上皇として数十年にわたり平和な治世と文化的な隆盛を築き上げた名君であった。その皇后がかの檀林皇后で、生前は超美人であったが、死後みずからの遺体を路傍に棄てさせ、腐乱して骨になって行く様を人々
に見せて、世の無常を知らしめたという。ちょっと気持ち悪いというか、勇気有るというか。

e-バイク
 e-バイクとは、電動アシストスポーツバイクのことである。要するに、今までのロードバイクとかクロスバイクにバッテリーとモーターを付けて走るようにしたもので、ヨーロッパから始まって近年日本でも人気が出つつある。スポーツバイクは軽いのが取り柄の一つであったが、バッテリーとモーターが付くので必然的に重くなる。その辺の兼ね合いがe-バイクのこれからの課題なのだろう。
 小生も昨年秋に一台買った。今までクロスバイクを2台持っていて、一台はカーボンフレームのバイクで主に輪行用に、もう一台はアルミ製でタイヤも太めで悪路や日常の街乗りに使っていた。ところが、昨年の夏、中学2年の孫が遊びに来て一緒に自転車に乗ったのだが、今まで子供用の自転車に乗っていたのだが、アルミ製の街乗り自転車を使わせるとちょっと踏むと軽くスピードが出て大変走りやすいと大感激して、取られてしまった。ブリジストン製で安物ではなかったが、孫に望まれると否やはない。お陰で小生、息子、孫と三代でしまなみ海道サイクリングが出来て大満足だった。
 さて、小生も一台では不十分なので追加しなければならない。それでe-バイクに目を付けた。現時点では、普通のクロスバイクで不自由なく山道やそこそこの急坂も登って行ける。しかし、後期高齢者になってこれから体力が衰える一方だろう。衰えてゆく体力分は電動に助けてもらおう。
 e-バイクをいろいろ調べてみると、なかなか帯に短し襷に長しでピッタリの物が見つからない。まず、出来るだけ軽い物で、電源を切っても普通のスポーツバイクとして走れる物が欲しい。
 この条件で探すと、第一候補としてヤマハのYPJシリーズが上がった。クロスバイクとしての性能はそれほど優れたものではないが、小生程度のサイクリストのはあまり上等な物は要らない。重さも16kgとまあ許される程度だ。問題は軽さを実現するためにバッテリーが小さい。600g程度でと軽いが、当然走行距離が短い。付けっぱなしで走ると高アシストでは14km、低アシストで50km弱である。しかし、現在のところ別にアシストなしでも走れるのだから、いよいよの急坂でのみアシストしてもらうとすれば充分に使えるのではないか。これにしよう。値段は今持っているカーボンのTrekよりは大分安い。
 大分待たされて、秋の終わりになってやっと入手出来た。我が家は丘陵地帯の上にあり、坂道が多い。家の周りを走ってみると、坂道が感激的に楽に登れる。これはほとんど麻薬だな。電動オフにして走る気になれない。家の周りはこれで走り回っている。長距離のサイクリングは能勢丘陵を越えて亀岡市までの往復70kmだけだが、ほとんど電源オフで走った。全然使わないのもアホらしいので、最後の急坂だけは使ってみたがやっぱりスイスイ登れた。100kmぐらいのサイクリングは楽に出来る感じだ。 
 さて、この自転車にテントを積んで遠出の輪行をするかどうかだが、輪行袋に入れて担ぐのはちょっと躊躇している。当分はカーボンのTrekを使おう。
 

2018年回顧
 昨年は天候が不順で、災害も多かった。夏は大変暑かったし、台風21号もひどかった。屋根瓦が飛ぶやら、カーポートが潰れて車の屋根がへっこむやら大変だった。
 世界の情勢もザワザワとして決して平和な状態ではないが、これは市井の一個人が心配しても仕方のないこと。韓国との関係はまあしょっちゅう文句を言ってくるお隣さんがいて不愉快だといった程度のことでしょう。
 さて、個人的にはなんやかやで充分に遊んだという気がしないが、まず今年目出度くも後期高齢者となった。とたんに免許更新で認知テストを受けた。ちょっとドキドキしたが無事通過。二ヶ月後に一時停止違反をやってまた認知テスト。同じ問題だった。
 海外旅行は3月に台湾旅行に行った。特別なこともない普通の海外旅行だった。年初の予定では、スエーデンの「王様の散歩道」を行こうと考えていたのだが、何となくタイミングを逸したというか、あまり行く気がなくなった。平らな道を歩くだけのようだし、虫が多そうだし。
 一泊以上の山行は、6月「別子銅山・笹ヶ峰・平家平」、7月「谷川岳・平標山縦走」、9月「苗場山と切明温泉-野反湖」、一泊以上のサイクリングは8月の「日本縦断サイクリング・東北補遺」、これは念願の川原毛地獄の大湯滝に入れたので満足満足。それと孫を連れてしまなみ海道をチョコッと走っただけだった。
 そのほかは、ちょっとした日帰りのハイキングやサイクリングがあっただけ。今年の夏は心臓に不安を感じて、いろいろ検査を受けたのでその結果が出るまで活動を控えたこともあった。
 大学の課目外履修生(聴講生)ももう5年目になる。今は週三回90分の授業を受けている。蘇軾の輪講、陸游の輪講、もう一つはモンゴル史の輪講。これが無茶苦茶難しい。全然ついて行けない。私は聴くだけの出席であるが、これを難なくこなしている学生さんは偉いなとつくづく思う。
 漢詩は相変わらず。年に20首程度のペースであろうか。
 書道は今年は隷書を習った。それも木簡隷という、敦煌などで出土した木簡に当時の無名の書記が書いたものであるが、 なかなか素朴で面白いが一年も書いていると少々厭きてきた。それで今年はまた行書に戻って、嵯峨天皇の書を臨書することになった。これは骨だぞ。
 そろそろ断捨離だ。屋根裏のがらくたを整理しなければと、第一弾としてカヤックを処分した。さすがに心残りだったが、クレッパーの名前の効いたのか四十年以上の古物だったがオークションで引き取り手があった。かわいがってくれればよいが。