あの世
若い頃は自分が死ぬということが恐かった。しかし、歳を取ってきて、両親の死、友人、知り合いの死に出遭ってきて、段々死が身近に感じられるようになってくると案外平静に死が迎えられるような気がしてきた。といってもとても自殺をする勇気はないが。
さて、ヒトは死ぬと何処へ行くのだろうか? 地獄極楽、天国、輪廻転生とかほとんどの宗教は死後の世界を用意してくれているようだ。ところが私の場合は、先祖代々神主の家柄なので一応神道だ。たいして信じているわけではないが。神道では死後の世界というのがあまりはっきりとイメージ化されていないように思う。何々之命とか、墓には奥津城とか書かれるので一応居場所は用意されているようであるが。ただ、日本の古代からの信仰で思い起こされるのは、古事記のいざなみの命の話だ。いざなぎの命が妻を訪ねて黄泉の国へ行く情景はちょっと陰惨だ。古代の日本人は死を汚れと見なし、忌み嫌っていたのではないか。だから仏教が伝来してきたとき、華やかな極楽の情景に魅せられて民衆は熱狂的に仏教を受け入れたのではないだろうか。黄泉の国に較べると地獄ですら華やかな感じがするもの。
ヒトには肉体とは別に魂が存在するのか。もし存在するならば、死後の世界の可能性がある。しかし、肉体の死と共に魂が消失するのであれば死後の世界はない。
現代の生物学の知識では、動物の肉体を構成するための情報はすべて細胞の遺伝子内に包含されている。これはヒトに限らず、全ての生命体に共通である。だったら魂についても遺伝子の中に情報が含まれているのか。哺乳類を通して遺伝子の差異はそれ程ない。魂はヒト特有のものなのか? まあ、日本人は動物の霊というものを信じて、それを祀っている人も多い。極端にはパンニズムというか、無生物を含めて万物に霊魂が存在する信仰だ。そこまでゆくと魂があってもなくても同じようなものだという気がする。
訳がわからなくなってしまったが、今のところ私は魂なんてものはなくって、死んでしまったらパッと無に帰してしまうというのが気楽で好ましいと考えている。
老いぼれの単独行
若い時でも山歩きのスピードはそれ程速くはなかったが、それでも林道などの平らな道だと頑張れば時速5kmぐらいは出てたかな。あるとき一緒になった登山グループとバスに間に合わせるために時速6kmで歩くことになり、交替で先頭に立って引っ張る羽目になったが、これは無理で先頭に立ったが忽ち後ろから追い越され後から小走りで付いて行くのがやっとだった。
それが歳を取ってからは益々おそくなってきて、街でもべつにゆっくり歩いているつもりでもないのに、女性にでもどんどん追い越される。そんなことで昨今は山仲間とのハイキングもついて行く自信がなくなった。
しかし、幸いなことに昔から一人歩きが好きで、数日かけた山行などはほとんど単独行でおこなってきた。これだと同行者を気にせず自分のペースで歩ける。秋深い今頃でも朝5時から夕方5時ぐらいまで歩けば12時間だからトロトロ歩いてもまあまあの距離が稼げる。五年前のパタゴニアでは平らなところでは30km強、この間の熊野古道小辺路でも大体20kmぐらいは歩けた。
勿論、荷物も極力軽くする。テントはダブルウォールでもペットボトル一本分の重さの英国製Terra Nova Laser Ultra 1、大柄のイギリス人がこの中に潜り込めるかというぐらい窮屈だが。寝袋も夏用で少々の寒さは辛抱する。食料は当然オール乾燥食品、一日や二日は飲まず(酒のこと)食わずでも歩く覚悟である。そこまですればまあ10kg以下に抑えられる。
近年、全国各地にロングトレイルと称して、それ程高山ではないが長い距離を歩くコースが造られている。これからはそういうものを探して歩こうと思っている。いつまで歩くことが出来るやら。
今年の夏に思う
今年の夏の気候はひどかったですね。まず、雨。近畿地方はそれ程でもなかったですが、九州は大変でしたね。球磨川、筑後川の水害は目を覆う程の痛ましさでした。中国はもっとひどかったようですね。インド洋でタップリ水蒸気を吸い込んだ雲が次から次へと四川省辺りに流れ込んで雨を降らせて、三峡ダムが決壊するかと心配させられました。昔は一時間100ミリの雨など聞いたこともなかったですが、今は普通になりましたね。
それと暑さ。これも記録的だったと報道されています。全く外に出る気がせずエアコンの効いた小部屋に籠もっていました。私は数年来通信講座で書道を習っており、毎月臨書を提出しなければなりませんが、書道部屋が家内から墨で汚れるからと屋根裏に追い上げられ炎熱地獄となっています。パンツ一枚で2日ほどは地獄の苦しみです。東北まで行けば少しは涼しかろうと八月下旬にテントを積んでサイクリングに出かけたのですが、山形新幹線新庄駅を下りるとクラッとするほどの暑さ。山の中で水が切れて脱水症状になりかかったり、岩手の山中では道路の温度標示が40℃になっていて、ほぼ熱中症で、早々に退散してきました。
夏の終わりの台風も幸い日本はかすめただけでしたが、これも相当に巨大だったようです。
こうやって振り返ってみると、雨、暑さ、台風などの程度が毎年段々ひどくなってきているのではないかと思います。ひょっとすると冬の寒さや降雪もひどくなるのかな。
この原因は、勿論大気中の炭酸ガス濃度の上昇だと云われ、世界各国で炭酸ガス排気量削減の努力が進んでいる。一方、千年、一万年と云った気候の長期周期変動のためだという見解も根強くあると思う。どちらが正解か決着はなかなか着かないと思うが、決着がついた時点では取り返しがつかないため、原因となる可能性のある要因は消す努力は必須だろう。
しかし、人類のような大型哺乳類が80億も地球上にひしめいて、快適な生活のためにエネルギーを湯水のように使っていては、地球の自然環境の悪化は避けられない。といって、100年前の生活に戻ることもできない。
地球自然環境への負荷を減らすためには、どうしても人口減少が必要なのだろうな。妊娠中絶大歓迎、発展途上国にも人口抑制が生活レベルを上げるのに必須だと知って貰うのが大事だ。
日本も江戸時代は三千万人だった。そこまで減らせとは言わないがせいぜい七千万人ぐらいが適正人口なのでは。
喜寿
この七月で77歳になった。いわゆる喜寿だ。本来の喜寿は数え年で77歳となったときだろうが、今では満年齢の方がなじみがある。喜寿の祝い? 誰も気にかけてくれない。まあ、自分でも喜寿を迎えたことに全く感興を覚えない。
喜寿になって何か好いことがあるか? 全くない。友人、知り合いは次々と亡くなってゆき淋しい限りだし、自らも体力の衰えは進み、物忘れは老年性痴呆になったのかと思われるほどだ。家内との会話もトンチンカンなことが多くなった。お互い頑固になってきている。また、軽度の脊椎管狭窄があり腰痛も段々ひどくなってきている。山歩き、サイクリングはまだやれるが、全くスピードが落ちて若い仲間についてゆけなくなった。幸い一人で活動することが苦にならないので、もっぱら単独行でやっている。まだ、テントを担いでの低山歩きや、自転車旅行ができるのでしばらくはアウトドアの活動も楽しめるが、これも長くて80歳までか。
漢詩、書道。これも続けてはいるが、もう進歩は望めないし、段々億劫になってきている。大学の聴講生は、継続してはいるもののコロナ禍のせいでオンライン授業となり億劫で全く聴講していない。大学からは授業料を払えと言ってきているが、全く受講していないのに払う気もしないので、このまま退学になるだろう。
中国の古い言葉に、「苟生(苟存)」というのがある。ただ無意味に生きているということだ。現在の小生はこの状態に近づきつつある。自ら思うことを外に発信しなければまさに「苟生」だ。その為に、頑張って毎月ホームページを更新し続けているのだが、これももうすぐ不定期になりそうだ。
私の父母は80歳を過ぎると、痴呆が進んできた。小生もその頃にはお迎えが来てほしいものだが、自ら生を絶つ勇気もない。
陰気な話ですみません。
二位じゃダメなんですか
先日、新しいスーパーコンピューター「富岳」が完成したとニュースで報じられていた。一世代前の「京」に較べると計算速度は40倍の約40京回/秒で現在の時点で世界一らしい。京などという単位はコンピューターの世界以外ではまず出てくることはないので、これがどんなにすごいスピードなのかは門外漢の私には全くピンとこない。この世界は日進月歩で競争が激しく来年にはアメリカや中国のコンピューターに追い抜かれるらしい。
以前、「京」の製作のとき、蓮舫議員が事業仕分けの審査で「二位じゃダメなんですか?」と質問したことが話題になった。当時の報道ではそんなつまらぬ質問をするなという感じで大分揶揄されたようであるが、このプロジェクトの申請の理由に世界一のスピードを目指すことが謳われていたとしたら、蓮舫議員のこの質問は当然なされるべき質問であろう。説明しなければならないのは「京」が到達する計算速度や性能でどういう成果が達成出来るかである。
「富岳」完成では、気象予測や新薬創成に大きな成果が期待出来ると報道されていたが、「京」のときも似たようなことが云われていたんじゃなかったかな。それで「京」は結果的にどういう成果を挙げたのかな? どうもそのあたりが素人にはよく理解出来ない。しかし、世界中が開発競争に血道を上げているところを見るとこれはきっとすごいことなんだろう。
昔は科学研究といっても大した金は使わずにコツコツとアイデアだけで仕事をして素晴らしい結果を出すことが出来た。今でも数学とか理論物理学などはそういう研究が可能かも知れないが、大体の分野はアイデア+研究費が必要だ。そして研究費をどこかから獲得するには、蓮舫議員のような人を上手に説得する技術が必要なのだ。その一例がカミオカンデだろう。小柴教授がカミオカンデを完成させてノーベル賞を受賞するには、資金を獲得し、測定装置を開発し、洞窟を掘って純水を満たすというコーディネーターとしての能力が必要だった。
長距離を歩く
歳を取って足腰が大分弱ってきた。3月の山仲間とのハイキングで、京都の大文字山に登ったのだが、最初の上りで膝に力が入らず思わずグラッとよろめき辛うじてストックで支え、転倒するのを免れた。これはやばいぞ。鍛え直さなくっちゃ。
まず、冬の間休んでいたステッパーを再開しよう。これは2015年のこの欄で「朝のルーティーン」として紹介しているからもう6年になるのか。よく壊れずにもっている。その間で東海道2往復、中山道1往復、西国街道1往復して、今は奥州街道を歩いている。10分700mの計算で朝60分から120分ぐらい歩くから、4~8kmぐらいだ。しかしこれは計算上のこと。実質はゼロだ。
江戸時代の旅人は普通一日40kmぐらいは歩いたと云われる。4月に紹介した山伏の泉光院は頑張った日には60kmぐらい歩いている。これは現代人にはなかなか大変だ。しかし、高山に登る元気がなくなった今は、横に歩くしかない。取り敢えずは40km歩こう。
私の住んでいる大阪府豊中市から交通量の少ない静かな道を歩くとなると北へ北摂丘陵を越えて京都府の亀岡市方面を目指すのが一番だ。地図で見ると亀岡までが大体40kmぐらいだ。まず亀岡に向かって歩こう。
第一回は朝出発が遅すぎたのと、北摂丘陵の中の林道で遠回りしすぎてこのままでは亀岡到着が夜中になりそうなので途中からバスに乗ってしまった。結局、30kmだった。
第二回は地図をきっちり調べて、早朝に出発。予定通り、山陰線亀岡駅近くまで来たがGPSを見ると35kmほどにしかならない、それで線路沿いに次の駅を目指す。並河駅、まだ達成出来ない。千代川駅で丁度40km。目標達成。
これに味を占めて、50kmを目指す。これには歩くコースを西に振って山陰線園部駅を目指そう。これで大体50kmぐらいだろう。
第三回。薄暗いうちに歩き出して、順調に進んでいたのだがコースが拙く朝の通勤の車が多くて歩きにくい。その上、半分ぐらい歩いて能勢町まで来た頃雨が降り出した。ここで中止してバスで帰る。今回は26km。
第四回。前回とはコースを変更して、山の集落を経由する峠越えの道を取る。二つ峠を越えて前回中止したポイントに到着する。峠と云っても舗装路だから登りの苦しさはない。その後も順調に進んで夕方無事園部駅に到着。49.5km。駅のまわりを一周して、50kmにあわす。帰りの京都経由のJRが混んでいて、コロナ流行時としては不要不急の行為だったか。帰りも歩くようにしなければ。
次はいよいよ60kmに挑戦だ。サイクリングの経験からすると丹波篠山へ向かうのがよいだろう。自転車で往復120kmだ。それと向こうで一泊して歩いて帰ろう。
(追記) 6月初旬、篠山に向かっての60kmウォークを敢行した。ビバークの用意をして、「お江戸日本橋七つ立ち」と歌にあるように七つ立ち(午前4時出発)だ。熱い日射しに照りつけられ、ヤブ蚊に刺されながら峠を二つ越えて篠山の町に着いたのは午後七時、すっかり暗くなってからだ。GPSを見るとまだ55kmだ。JR篠山口まで歩こう。8時半、駅に着くと丁度60km。クタクタだ。一晩泊まって、もう一日歩く気はしない。列車で帰ろう。
魁猿逝く
魁猿が死んだ。夫人からの挨拶状によると、3月1日に亡くなったとのこと。昨年末にメールの遣り取りをした時は元気そうだったが、今年に入ってからは何度メールを送っても返事がなかったので心配していたのだが。
つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを 在原業平
昨年初め、食道癌が見つかったが、もう転移があり手術不能で、放射線療法と抗癌剤で一度は快方に向かったがやはりダメだった。しかし小生との関係だけでも、一緒に詩集を発刊したし、温泉旅行や紅葉見物に出かけたりしたので、一年間は有意義で心置きなく過ごしたであろう。
思い起こせば、大学同級生として最初に彼と話をしたのは、一年生の5月、ワンゲルの比良山での新人歓迎キャンプの帰りの電車の中である。江若鉄道(湖西線の前身)でたまたま隣り合って吊り輪を持っていた時、彼が突然小生に「プーがしたいけどええやろか?」と云った。唖然。そんなこと聞かれても。その後、群れるのが苦手な小生は早々にワンゲルを退会して単独の山行をやり出したし、彼はワンゲルでリーダーシップを発揮して副主将として活躍していたので付き合いはなかった。
再び、親しくなったのは6年後、共に大学院で研究に従事してからである。研究室が近かったので、間断なく顔を合わせていて一緒に勉強もしたし、趣味のアウトドアも楽しんだ。まあ、人間としては彼の方が大分大きく、小生がいつも兄事していた。
大学院を終えてから、小生はずっと大阪から離れたことはなかったが、彼は関東、島根、富山などを勤務地を転転としており、その間は年に一、二度顔を合わせるぐらいであったが、50歳を過ぎてから大阪に帰ってきて再び一緒に山に行くようになった。その遊びの記録はこのホームページに大体は出ている。
彼は大変交友関係が広く小生はその一人に過ぎないだろうが、小生は偏屈な性格で親しくしている友人は彼ぐらいしかいなかった。その意味で、小生の方が早く逝きたかったと思う。
大分前に彼から聞いていたが、死後は医学部学生の解剖実習のために献体の登録をしており、またその後の遺骨はどこかの寺で多くの遺骨と一緒に仏像に造り込むそうである。夫人の手紙によれば、遺言により自宅で点滴も受けず静かに眠りに就かれ、葬儀もせずただちに献体されたとのことである。心憎いばかりの身の処しようである。
彼の爽やかな生き様は小生の心に何時までも残っていよう。
山伏の旅日記 石川栄輔著「大江戸 泉光院旅日記」(講談社文庫)
私は昔の旅行記を読むのが好きである。江戸時代であるならば、菅江真澄や橘南谿の紀行が有名である。また、幕末の志士、清河八郎が母を伴っての旅の日記「西遊草」も大変面白い。当時の資料を見ると江戸時代後期は大旅行ブームのようで庶民が日本中を旅して廻っている感じである。それは女性も例外ではないようである(近世おんな旅日記 柴桂子著)。
さて、今回紹介するのは、日向国佐土原の泉光院という山伏が六年かけて日本全土を旅した日記である。ほとんど毎日日記をつけているので全文は膨大になるが、ここでは石川栄輔のダイジェストによって紹介する。
泉光院は九州佐土原島津藩内に住む大先達という位の高い山伏であり、しかも武士として武術、儒学の教養も身につけており、俳句から漢詩に到るまでの幅広い趣味を持っていた人物である。
彼が五十六歳の時、一人の供を連れて六年間の旅に出発する。旅の目的は一応修験本山醍醐三宝院の命を受けての視察であるが、各地を托鉢しながらの旅である。
各地での庶民との交流の様子が実に興味深く、また江戸時代の庶民の生活が今まで学校で習ったものと違うことがはっきりわかる。各地の庶民の生活は決して悲惨なものではなく、実にゆったりと生活を楽しんでいる。泉光院らは毎日托鉢をし、夜は民家に泊めてながら旅をしている。六年間、一日たりとも野宿をしていない。泊まった農家では儒学の講義を求められ、話を聞きに集落の人々が集まってくる。皆知識欲が旺盛である。また、行く先々で俳句の遣り取りを楽しんでいる。街道筋の繁華なところよりも辺鄙な山里の方がお布施が多かったようである。
健脚である。頑張れば一日60キロは歩いている。
正月になると、誰かが年宿といって一ヶ月ほど無料で一室を提供してくれる。勿論、食料などはせっせと托鉢で集めるのだが。集落の行事に参加して楽しんでいる。
北は秋田、宮城県まで行き、あと四国の香川、徳島、高知を除きすべての県を歩いている。その旅の途中で彼らの出発地、佐土原という小さな町にゆかりの人々十数人と出合っている。当時の日本はもうかなり高い流動性を持っていたのだ。
それと興味深かったことの一つに、以前「伊賀のシエスタ(2014)」に書いた昼寝の習慣がある村であったと書いている。珍しいにしても伊賀だけではなかったようである。
20年ほど前に買った文庫本であるが、時々は本棚から引っ張り出して読み返している。(大江戸泉光院日記 石川栄輔著 講談社文庫)
武漢発新型コロナ肺炎 2
やっぱり「蜀の桟道」ツアーは中止になった。それで一応、同時期に出発するパキスタン「花の桃源郷・フンザの旅」というのに乗り換えた。
パキスタンは数日前までは不思議なことに新型コロナ肺炎発生はなかったようだが、やはり2月末イランへ旅行に行っていた人が感染した。あと一ヶ月後なので、これもどうなることやら。飛行機はバンコック経由だろうから、日本、タイ、パキスタンのどこかで不都合があると中止になる。行ったのはよいが、どこかで2週間閉じ込められる可能性だってある。こわや、こわやである。
さて、肝心のコロナ肺炎であるが一向に収まる気配が見えない。中国での流行は一応低下傾向にあるようだが、あの国の発表は当てにならないようで何処まで信用して好いのやら。しかし、今回の流行に対しては中国に責任があるから面子にかけて押さえ込むだろう。
問題は他の国である。韓国はひどいことになっているようだし、イタリア、イランも増えているし、感染者は多かれ少なかれ世界中で発生しているようだ。ここまで来るともう防ぎ様はないだろう。頭を下げてジッと通り過ぎるのを待つしかない。ワクチンとか、治療薬はないが、インフルエンザの流行と同じ程度であるからそれほど恐れることはないのでは。昔、小松左京の書いた「復活の日」という小説があったが、あれでは感染者はみんな死んでしまった。そんな強い病原性はないようだ。
さて、問題は何時流行が収束するかだ。インフルの場合は春になるといつの間にか終わってしまうが、今回のコロナの場合はわからない。ウジウジと何時までも尾を引いて、大半の人が感染して免疫が出来るまで消滅しないなんて可能性もある。
まあ、サッと消えて、春にはもとのように元気に活動出来ることを祈ろう。
武漢発新型コロナ肺炎
新型コロナ肺炎が流行して、結構鬱陶しいことになりつつある。日本へチャーター便で帰国した数百人の中に十名ほどの感染者がいたと言うことはちょっとビックリするほど高い比率だ。武漢市民一千万人では無症状の人を含むと百万近い感染者がいる可能性がある。しかしそれで死者が数百名と言うことは死亡率でいうと意外と低いのではないだろうか。このままでは、中国では感染者が一千万人以上になって死者も数千人になるのだろうが、それ以外の衛生状態の良い国では大したことはないような気がする。
肺炎が発症した時の病状の程度、経過などの情報を知らないので確実なことはいえないが、インフルエンザの流行と大差は無いのではないだろうか。日本での発症者はほとんど健常人であるためだろうが、あまり重症者はいないのでは? もっともインフルエンザでは特効薬があるが、コロナウイルスには薬がないのが気にかかるが。
実は、小生3月下旬にツアーで中国へ出かける予定だ。蜀の桟道を歩くのだ。パスポートも更新して、長距離歩くトレーニングも始めたところだった。ところが新聞によると、外務省は中国について感染症危険情報をレベル2に引き上げた。つまり不要不急の旅行はするなというレベルだ。アメリカ大手航空会社も中国行きの便を少なくとも3月一杯は運行中止するというきびしい決定をしたらしい。これでは外務省が短期間にレベルを引き下げる可能性は少ない。
こんな状況ではツアー会社は中止せざるを得ないだろうな。それと、世界的な流行になると何処へも行けなくなるぞ。
2019年回顧
昨年は異常気象というか台風、豪雨などが次々と日本を襲ってきた。これはどうも理屈ではないが直感的に確実に地球温暖化が進行しているとしか思えない。世界政治もトランプが引っかき回しているし、イスラム世界の混乱もひどい。日韓問題も手の施しようがなさそうだ。国内政治も安倍政権が長すぎてガタが来たというか、政治に緊張感が失われている。政治にしても、一般社会にしてもモラルが失われているように見える。とまあ、これは年寄りの愚痴で言ったところでどうしようもない。
さて、個人的には大過なく過ごしたと言うべきだろうか。仕事の方は段々少なくなって、いまは小遣い稼ぎ程度のことしかしてはいない。それも今年の春までだ。
アウトドアは一昨年秋に車をプリウスからシエンタに買い換えた。シエンタは後部座席を倒すと2人用のテントぐらいの空間が出来、ゆっくりと寝ることが出来る。これで春には山仲間と2泊3日で岐阜県の舟伏山、簗谷山に出かけた。5月には中国地方へ4泊5日でゆき、三段峡、恐羅漢山、三瓶山、吾妻山に登った。夏には中国からの留学生と白山、白川村、郡上八幡などを廻った。しかしどれも山歩きとしては日帰り登山程度のもので山中泊をする縦走登山などは出来なかった。
サイクリングは春に西四国を3泊で回ったが、南予の海岸が美しかった。今年の掉尾を飾るものには2週間かけての台湾環島サイクリングがある。もう無理だと思っていたのだが、娘のお陰で何とかやり遂げることが出来た。
海外旅行は台湾の他に9月にカナディアンロッキーハイキングのツアーに参加した。ロッキー山中のアッシニボインロッジに4泊して、辺りを歩き回るのだが散歩に毛の生えた程度の歩きだったが景色は素晴らしかった。
さて、アウトドア以外の趣味であるが、まず漢詩。作詩の意欲は年々衰えているが、魁猿との合作の詩集の第二集を秋に発行した。まあこれが最後の詩集になるだろう。内容に比較して立派すぎる装丁だ。
書道は昨年一杯で嵯峨天皇の「李嶠詩」を終え、今年は草書に戻って「書譜」 に挑戦する。 阪大文学部での聴講生としての勉強はもう何年になるだろうか、昨年春からは「懐徳堂」に関する書籍を読むのと、相変わらず蘇軾・陸游の詩のセミナーを拝聴している。
さて、この七月で77歳となり、活動も段々衰えてくるので、今年の課題は「断捨離」を行って、人生の終わり向けて身辺の整理に入りたいと考えている。