母の実家の襖絵 (Dec)
トマト (Oct)
世界的気候異常 (Aug)
老虎の咆哮 白鵬関 (July)
こむら返り (May)
キムチ騒動 (Apr)

グルメツアー (Mar)
新型コロナ 3 (Feb)
2020年回顧 (Jan)


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母の実家の襖絵
 母の生家は私たちが住んでいた四国吉野川の中流から15km程下流の沖積平野にあった。江戸時代から代々医者をやっていたようだが、祖父になって郵便局長を務めていた。村の郵便局は当時、局舎の土地建物を提供して郵便業務を請け負う形で、局長としての給与と家賃が入りなかなかうま味のある職業だったようだ。従って、大体家は素封家といわれる家柄で、まあ村長、学校の校長などと並ぶ土地の名士だったようだ。
 屋敷も明治初め頃に建ったものらしく、ちょっとした庭園があるかなり大きなものだった。
 小学生の頃は男3人兄弟で週末一泊でよく遊びに行った。月に一回ぐらいは行っていたのではないかな。鉄道で3駅ぐらいで、祖父母はやさしいし、それに毎回映画が見られたのだ。
 さて、その屋敷の座敷には四面の襖絵があった。昔、この地にやってきた旅絵師に書いてもらったものらしい。文人画というのか、南画というのか? 私はなぜかその絵の興味を持って、脇に何と書いているのか読みたいと思ったが、子供に読めるはずもなかった。 その後、大阪へ出てからは年に一二度、帰省の時に立ち寄るぐらいになってしまったが、数年前立ち寄ると屋敷がなくなっていた。失火により使い物にならなくなって、取り壊したとのこと。少年時代の懐かしい思い出の場所が一つ消えた。
 襖絵のことを思い出して尋ねると、剥がして保管しているとのこと。もう、ふすまに張り直すこともないだろうと、思い出に掛け軸にしたいと一枚ねだると蔵から出してきてくれた。見ると絵の周辺は糊の痕が付いていて大分汚い。しかし周辺部を除けばなんとかなるのではと良さそうなのを一枚貰ってきた。
 古物の表装をやってくれる装具屋は市内に一軒あるだけらしい。そこの親父も腰痛で仕事を休んでいるという。センチメンタルバリューしかないこの絵には不相応な上等の表装でなんとか頼み込んでOKして貰った。半年ほど経って、忘れていた頃出来上がった。
 表装が立派だと、絵まで引き立って見える。外祖父母の思い出と考えればまあ安いものとも云えよう。
 絵の方は素人目には、無名の旅絵師にしては達者なものだと思うし、書の方もなかなかのような気がする。
 書の方であるが、初めの部分は唐の韓愈の「葡萄」と題する七言絶句である。ただ、詩の方は春、新しい茎が伸びている様を詠っているので、絵が実った葡萄であるのとぴったりマッチしているとは言いがたい。後の部分はまだ完全には読めていないし、誤読もあるかもしれないが、一応「明治二十二穏雨(??)十月下澣(下旬のこと)○○、於阿波三好郡家次開○ 直外髯児」と書いているようだ。
 従って、絵師は「直外」と号したようだ。髯児とはひげを生やした小僧という卑下であろうか。田能村直外という田能村竹田の直系に当たる南画家がいるが、残念ながら明治三十年代に出生しているので、時代が合わない。当時、田能村一門の総帥は田能村直外の先代に当たる田能村直入であった。直入には数百人の弟子がいたといわれているので、この直外も一門の末席に名を連ねていたのかもしれないと想像を逞しくしている。


トマト

 果物と野菜の区別はよく言われているのが一年生の植物が野菜で、木に生るものや、二年以上育てて生るものが果物だが、これに従うとメロン、スイカ、イチゴが野菜に、アボガドは果物に分類され、消費者の概念と外れてしまう。
 トマトはどうだ? まあ、トマトは一年生の植物だから野菜か。これは現在の我々の感覚に一致する。でも、ブータンを旅した時には木に生ったトマトを見たな。
 ところで、田舎育ちの私の少年時代にはトマトは果物感覚だった。
 夏の暑い日、井戸水や、冷たい流れで冷やしたトマトに塩をふって、かぶりつく。真っ赤に熟れたものより、まだ少し青いぐらいのものが歯ごたえがあって旨かった気がする。この食べ方はスイカやマクワウリに共通するものだった。夏休み、川遊びで空腹になったら、河原からちょっと上がった畑でトマトやキュウリを少し採って食べるなどという悪いこともやった。
 田舎の母親はトマトケチャップは別として、生のトマトを使うようなハイカラな料理は知らなかった。
 元々、トマトは中南米由来のナス科の植物で、ヨーロッパにもたらされた時もアルカロイド中毒を恐れて、食用ではなく観賞用として栽培されていたらしい。日本でも江戸時代に入ってきた時には観賞用だった。それが、19世紀頃にイタリアで食べ始められ、それが世界中に拡がったようだ。シュバイツァー博士の自伝に、子供の頃牧師館だった自宅の庭に独仏国境にあった村で初めてトマトが植えられたと書いてあった記憶がある。日本では明治の頃になるのかな。妻の父は四国の漁村で育ったのだが、子供の頃、近くの老人が真っ赤に実ったトマトを見て、「これが柿だったらなあ」と嘆いたそうだ。大正中頃の話である。ちなみに中国語でトマトは西紅柿(シーホンシー)と呼ぶ。つまり、トマトは野菜としての歴史が新しいのだ。
 最後にトマト中毒の話。アメリカである農夫がトマトを栽培するのに雑草であるチョウセンアサガオの茎に接ぎ木をすると元気になりたくさん実を付けると友人から聞き、実行した。トマトもチョウセンアサガオもナス科なので接ぎ木が可能ならしい。しかし、そのトマトを食べた家族はナス科のアルカロイド中毒になった。チョウセンアサガオの成分がトマトの中に移って来ていたのだ。友人の方は何故中毒にならなかったのか。彼は接ぎ木をする時にチョウセンアサガオの茎から葉を全部取ってしまっていたのでアルカロイドの生成量が少なかったらしい。(推理する医学 バートン・ルーチェ著 西村書店 昭和60年)。
 路傍にナスによく似たきれいな花を咲かせる雑草がある。ワルナスビだ。これは牧野富太郎博士の命名とのこと。これは黄色いミニトマトそっくりの実を付ける。これも食べると中毒するので、子供が食べないように注意する必要がある。

世界的気候異常

 今年の七月は世界的に暑かったらしい。日本も暑かったですね。ここ数年来、日本のどこかで40℃を越えたと報道されてももう驚きませんね。この暑さの中、よくオリンピックやりました。
 ヨーロッパ、トルコ、アメリカなどあまりの高気温で火災が頻発しています。世界中で豪雨、洪水、台風が起こっているのも、海水温の上昇による水蒸気量増加が原因でしょう。
 それで、世界中でこれはただ事ではない、人類の活動が大気中の炭酸ガス濃度を上昇させていて、これが地球的規模の気温上昇を来しているのだろうと言うことになってきています。これはもう何十年も前から警鐘が鳴らされていたのですが、これを認めて対策を講じるにはどうしても産業活動を抑制せざるを得ないので先進国の間では消極的でした。現在でも地球的気候変動が人類の活動に起因するかどうかは100%確実とは云えないと思いますが、これが証明されるまで待っていてはもう遅すぎるということになるのでしょうが。いや、もうすでに遅すぎるのかもしれませんね。
 カーボンニュートラルといって、人類の活動による炭酸ガス産生(ほとんどは石炭、石油などを燃やす発電、自動車などの産業活動)を極小にして、植物の光合成による炭酸ガス吸収とバランスをとる施策が模索されつつある。
 いろんな報道ではかなり楽観的な将来が展望されているようだが、そんなにうまく行くなかな? 自動車をすべて電気自動車にする。そのためには膨大な電力が必要だ。今だに化石燃料を燃やして発電しているのに。原子力発電には抵抗が多いが、カーボンニュートラルを達成するには大部分原子力に頼らざるを得ないだろう。少なくとも核融合エネルギーが実用化されるまでは。
 そんなことより根本的問題は世界人口の爆発的増加にあると思う。1950年には25億だったのが今や80億である。世界が北半球の先進国のみで成り立っているのなら、あるいはカーボンニュートラルの達成は可能かもしれないが、開発途上国はこれから人口もどんどん増えてきて、生活向上によって一人あたりのエネルギー消費量もどんどん増えてくる。先進国は開発途上国に対してこれを抑制せよとはいいにくい。こんな状態ではカーボンニュートラルへの努力も焼け石に水だろう。
 それにしても、どうして誰も人口抑制の必要性に対して声を上げないのだろう?我が国でも人口減少に対しては非常に警戒的である。我が国土からすると5千万ぐらいが適正人口だと思うが。韓国などはいま出生率がどんどん低下しているようだが、これこそ時代の先端を行っているのではないかな。

老虎の咆哮 白鵬関
 
 このところ大リーグの大谷翔平、将棋の藤井聡太など若者の活躍が日本中に熱狂の嵐を巻き起こしている。かくいう私自身も野球に対してたいした興味もないのに大谷の打席だけは見ており、また将棋も駒の動かし方を知っている程度なのにabemaの実況中継を見ながらAIの判定の揺れ動きをハラハラしながら見守っている。
 一方、大相撲は興味を失ってから大分経つ。貴乃花の活躍までだったか。玄人的な興味の持ち方をしないミーハーにとってはヒーローの出現が必要なのだ。朝青龍、白鵬という強い力士がでたが、彼等はあくまで強い悪役という立場でこれに対抗して観客を熱狂させる力士はついに出現しなかった。負けてもいいから、彼等と対抗してハラハラさせる勝負が見たかったのだ。
 朝青龍が去り、真に実力のある横綱は白鵬だけとなって久しい。彼も体力が衰え、故障がちで休場も多い。観衆の評判もあまりよろしくないようだ。運営陣に対する態度も横柄で、親方衆が苦々しく思っているのは一目瞭然だ。いつでも引退に追い込めるのだろうが、それが出来ないのは彼以外はどれもドングリの背比べで、白鵬が消えてしまうと大相撲の人気が一気に低下する恐れがあるからだろう。
 さて、今度の名古屋場所では背水の陣で出場したのだろう。今回、成績が悪いと、それこそ引退を余儀なくされる。それはちょうど長い間、君臨してきた巨大な虎が年老いて若虎から挑戦を受けているような感じがする。体力は衰え、傷だらけの老虎はそれでも老獪である。張り手、かち上げ、土俵でのにらみ合いなど横綱らしからぬと非難を受けようと、決して反則ではない。
 あれよあれよと勝ち進んで、千秋楽では次のチャンピオン候補第一の照ノ富士をねじ伏せた。老虎はまさに雄叫びをあげた。これにもケチをつける向きもあったようだが、私には感動的な場面だった。思い返してみると、朝青龍もやったし、貴乃花もガッツポーズがあったよね。みんな感極まった時にはやるのだ。素直に拍手を送りたい。
 老虎も土俵生命はもう長くはないだろう。照ノ富士が安定した強さを保ち、世代交代がすんなりと行われることが大相撲の人気をつなぐのには必要だ。

こむら返り
 以前から、時々こむら返りが起こることがあった。だいたいはふくらはぎであったから力を掛けてかかとを曲げるようにしてふくらはぎの筋肉を伸展していると収まった。それで大して気にすることもなく放っておいた。
 10年前の夏、激烈なこむら返りを経験した。炎天下のサイクリングで京都山中を走っていたとき、それまで充分水分補給をやっていたのであるが、ちょっとした坂が上れなくなり、自転車がフラフラしだした。これはヤバいぞと近くにあったキャンプ場に転がり込んだ。予定していなかったので食料は菓子パン一個、塩分補給のすべもない。夜中に両下肢全体の筋肉が痙攣しだした。強烈に痛い。どうすることも出来なくて、小川に下半身を沈めて筋肉を冷やす。一時間ほどでなんとかこむら返りは収まったが、一時は救急車を呼ぼうかと思ったほどだった。
 その後、山仲間がこむら返りに漢方薬の「芍薬甘草散」を愛用しているのを知った。みんなよく効くと言っている。あまり漢方薬は信用していないのであるが、知り合いの内科医に話してみると、彼も漢方薬は使わないが「芍薬甘草散」だけは効果があると太鼓判だった。それで半信半疑ながら、私も試しに買ってこむら返りに備えた。
 ある夜、こむら返りが起こったとき早速服用した。効いた。一発で効いた。ただ、効きようが奇妙なのである。薬を口に含んで水で流し込む。ヒヤッとした感じがお腹に達するとスッとこむら返りが収まる。エッ、もう効いたの!速すぎる。普通の薬の効き方と違う。条件反射が起こったかと思ったが、条件付けしていない一回目から効いたので違う。ということで訳がわからないまでもよく効くことだけは確かだ。ただこれは個人的経験だからみんながこういう効き方をしているかどうかはわからない。
 こんな奇妙な効き方だから、芍薬甘草散本来の薬効かどうかの疑いがある。そこで他のものでも効くのではと、スポーツ店で買った電解質補給タブレットを試してみたら、これも効いた。こむら返りの一因は電解質異常にもあるので理屈は通る。それで、百均で買った塩タブレットを飲んでみたらこれも効いた。これが一番安価である。
 年を取ってきてから、夜間にこむら返りが起こることが多くなってきた。今のところよく起こるのが向こうずねの筋肉である。まあ、この辺りの筋肉は細いので引きつったとしてもたいした痛みではないが、それでも寝られない。こむら返りの起こっている筋肉のストレッチをすると収まるがなかなか効果的に伸展させることが難しい。それで、渋々起き出して芍薬甘草散の錠剤を2錠(推奨は3錠)飲んでいるこの頃だ。

キムチ騒動

 先日、中国で巨大な水槽の中に裸の中国人が入ってキムチを混ぜている動画がネットで配信されて韓国で大騒動になった。なにせ、韓国で食されるキムチの大半は中国から輸入されているらしい。それがこんな不潔な環境で製造されていると知った韓国人はギョッとしただろう。「見ぬもの清し」とはいうけれど、見た以上食べる気にはなれないだろう。しかしキムチが食べられないと韓国人はつらいだろう。韓国の誇りである食品だものな(ドラマにもなった。なかなか面白かった)。
 私もそうしょっちゅう食べるわけではないが(日本にはいろいろおいしい漬物がある),、嫌いではない。とくに冬の寒い夜、キムチ鍋で焼酎(日本の焼酎)を一杯やるのは最高だ。しかし、韓国の酒は何であんなに不味いのだろう。ドラマを見ていると金持ちでもみんな真露(甲類焼酎)を飲んでいる。それはそれとして、今後は国産以外のキムチは食わないことにしよう。あんなものを平気で食べていた韓国で作られるものも気分が悪いではないか。
 それと、キムチのオリジンが中国だと中国人が言い出した。これにはウリジナルの韓国人がいきり立った。なにせ、何でも朝鮮オリジンでないと承知しない韓国人だもの。しかし、今我々が食するキムチは唐辛子をたくさん入れた辛いものだ。こういった漬物は確かに朝鮮以外ではあまり見かけないかもしれない。唐辛子が朝鮮で食用にされだしたのは18世紀になってからだとされている。それ以前のキムチはどんな味だったのだろうか。まあ、どこの国の漬物でも似たようなものだったのではなかろうか。各地同時発生でもいいのでは。こんなものでいきり立ってオリジナリティを主張するとはね。日本人ならば、「アッ、そうなの」でおしまいだ。証明のしようもなさそうだもの。

グルメツアー

 家内がパンフレットを持ってきてこのツアーに行きたいという。見ると高級なツアー会社だ。エー、2泊3日でこの値段? ちょっと高すぎない? 「二泊ともなかなか予約出来ない宿だからこの値段は仕方ない、それにこの春は結婚五十周年よ」と不満そうに言う。小生は野に臥し山に臥しの人間だから高級な宿というのにはあまり興味はない。しかし、例年一回は行っている海外旅行に昨年は行かなかったし、今年も無理だろう。それに較べれば安いものだ。まあ、ここは家内の機嫌をとっておこう。
 
 新幹線の新山口駅で東京からの一行と待ち合わせ。一行と行っても夫婦一組と添乗員のみだ。客が夫婦二組に添乗員が付くとは相当に贅沢だ。
 ジャンボタクシーで下関へ。長府辺りを時間つぶしに何カ所か観光。グルメ目当ての旅であるし、小さな町だから特筆するほどのものはない。まあ、功山寺の本堂(国宝)ぐらいか。今夜の宿はフク料理で有名な「春帆楼」だ。ここは伊藤博文と李鴻章が下関条約を結んだ場所としても有名だ。ロビーには歴代総理大臣などの書がずらりと並んでいる。大きな建物だが宿泊室は10室ほど。案内された部屋は正面に関門海峡を望む20畳。二人には広すぎる。コロナのせいか今夜の客は我々一行のみらしい。添乗員さんは勿論別の宿へ。
 夕食は勿論ふぐ料理。前菜、大皿のテッサ、鍋、雑炊まで見事なものだし、旨いのは勿論だ。しかし、あまり上等な舌を持たない小生には、伊勢湾辺りの民宿で食する天然ふぐとの違いはよく判らない。まあ天下の春帆楼で食べたという感激がプラスしたぐらいか。気が大きくなって、併せる酒は「獺祭」純米大吟醸二割三分磨き。したたか酔った。
 翌日は九州へ渡り、中津へ。ここも、観光は耶馬溪青の洞門、福沢諭吉記念館、中津城をちょろりと見て、「筑紫亭」という料亭で昼食。明治時代に創業という、床が抜けそうな古い建物だが風情のある見事なものだ。広瀬淡窓の屏風、旭荘の額が何気なく置いてあるのも凄い。料理は初めあまり期待していなかったが、これまたビックリ。もの凄く美味だった。前菜、刺身、鱧のしゃぶしゃぶなど。中津は年中鱧を食べる地らしい。板長さんは近江八幡の招福楼で修行したとのこと。玉に瑕は女将の饒舌。食事の間、脇でしゃべりっぱなし。
 次いで、由布院へ向かう。今夜の宿は「亀の井別荘」というところ。小生は聞いたこともなかったが、由布院御三家の一つで大変高級な宿らしい。広大な敷地の中のクネクネと曲がる通路を辿ってやっと離れの部屋に着く。部屋は居間と寝室があり広いし、温泉も大浴場と部屋の湯が滾滾と流れ出している。部屋からは苔の深い庭が見えるだけ。落ち着く。お目当ての夕食も勿論素晴らしかったが、ステーキが付くなど老人にとっては少し若者向けといった感じがする。しかしこのステーキも旨かった。ついグラスワインなどを追加してしまった。
 最終日、宿でゆっくりして日田へ向かう。小生は今まで四度も訪れているので今更だったが、桂林荘公園というのを見つけたのが唯一の収穫だった。ここは広瀬淡窓が有名な咸宜園という学塾を開く以前に塾を開いた場所で、ここで詠まれた「桂林荘雑詠」という詩がよく知られている。ここで最後の昼食を摂ったのだがこれが大失敗。添乗さんが最初に予定していた場所がコロナで休業していたため、やむなく初めて代わりにとった料亭だったらしいが、不味かった。
 最後に太宰府で九州国立博物館を走り見して天神さんで孫たちのために学業守りを受けて帰りました。
 分不相応な旅でしたが、十分に楽しむことが出来ました。 

新型コロナ 3
 
昨年の二月、三月とコロナについて書いた。その時はこんなに蔓延してパンデミックなどと大騒動になるとは思っていなかった。  世界では感染者一億人、死者300万人といわれており、大変な状況である。現在ワクチンがお投与がおこなわれ始めているが、これで流行が収まるとしても、早くともまだ一二年先のことだろう。  日本でもヒステリックに騒がれているが、もう少し冷静になってもいいのではないだろうか。
 感染者の数は日本でのPCR検査の数が少ないので世界との比較は難しいが、死者で比較すると、世界では人口十万人あたり40人弱の死亡。日本では発生から今までを一年とみると死者5000人強らしいから、人口十万人あたり多く見積もっても年間5人ぐらいだろうか。人口10万の都市で年間の死者は年間1400人として、コロナで5人死んだとしても統計学的には誤差の内だ。交通事故のように働き盛りの人が死亡すると社会的損失は大きいが、年間の死亡総数もコロナによる死者も大体高齢者だろうから、社会的損失は大したことはない。
 そう言い切ってしまうと、個人的レベルでのまだまだ生きられた人が思いがけず亡くなったことによる悲しみや残念な思いを無視したことになるが、それはどんな原因で死んでも同じこと。特にコロナだけが特別でもなかろう。小生のように喜寿を過ぎたものにとってはもう生きていても大した社会的貢献も出来ず、万一コロナに罹って死んだとしてもたいして残念と思は思わない。
 ワクチン接種の順番にしても、医療従事者優先は当然としても高齢者を優先する必要はないと思う。むしろ動き回ってコロナを媒介している若者を先に免疫を付けさせる方が効率的では。

   現在、医療崩壊、ワクチン接種の計画、社会経済への対策など問題が山積みだが、それを統括的に対処する人材が不足しているのではないだろうか。  明治時代、日清戦争からの帰還兵の検疫業務を計画指揮して中国から日本への流行病の侵入を防止し、さらに台湾を植民地化したときは民政を司り台湾住民の衛生状態の改善に大きな成果を挙げ、また関東大震災の復興を担って絶大な貢献をした後藤新平のような人材が出てこないのかな。河野太郎氏が頑張ってくれればよいが。

2020年回顧
 2020年は新型コロナ流行の年として後世に記憶されるのでしょうが、まあひどかったですね。これほど世界中の人たちの生活に影響を与えるとは予想もしていませんでした。 12月末の世界の感染者は約8千万人、死者は2百万人に近づいています。今年もまだまだ流行は収まらない様子ですから感染者は軽く一億人を越え、死者も3百万ぐらいにはなるのでしょう。日本でも感染者は二十万人超、死者約三千人ですがこれもまだまだ増えてゆくのでしょうね。
 自然の方も酷暑、水害がひどかったですね。これも年々ひどくなっているような気がします。

 さて、私個人のことですが、誕生日で77歳となりました。体力は徐々に衰えていますが、大した病気もせず無事に一年を過ごすことが出来ました。ただ痛恨事としては、春に魁猿が逝ってしまったことです。ただ一人の心を許す友であったのですが。

 昨年のアウトドア活動ですが、海外旅行は当然のことながらキャンセルとなりました。
 このところ山の上り下りがきつくなったので、横に歩こうと長距離歩行を試みました。最初は豊中市の自宅から山陰線の亀岡まで40km、次いで山陰線の園部まで50km、その次は丹波篠山まで60km。どうもそれ程楽しくはないとここでストップしています。歩行速度が遅いので、これ以上になると途中で野宿をしないといけない。
 日帰りのハイキングはいちいちは挙げないが、記憶に残ったものは淀川の河津桜、能勢のエドヒガンザクラ見物、能登猿山のユキワリソウ見物などがあった。
 一泊以上の山行では岐阜県の籾糠山、秋田駒ヶ岳、大山-船上山縦走、熊野古道小辺路を歩いた。小辺路では久しぶりにテントを担いだ。
 サイクリングは車に自転車を積んで、播磨地方佐用町-龍野一周と扇ヶ山一周、夏の輪行、山形新庄-鳴子温泉-栗駒山-岩手山山麓から二戸まで4泊で走った。青森まで走る予定であったが、40℃という気温で熱中症になりかかってダウンした。
 コロナ流行下であったが、まあよく行ったと云えようか。単独行なので感染は全く気にしなかった。

 書道は現在、孫過庭の「書譜」を臨書している。一年たったがまだ充分ではないのでもう少し続けようと思っている。
 漢詩は益々作れなくなって、ホームページに載せる拙い詩を月に一首作るのがやっとである。2015年から阪大文学部の聴講生として中国文学の講義を受けていたが、今年度はコロナのせいだでオンライン授業となった。これにはついて行けないので、入学料を払っただけで全く受講しなかった。前期、後期とも授業料を払わなかったのできっともう除籍されていることだろう。2019年に魁猿の死期が近いというので合作の詩集を作ったのが小生の最後の華であろうか。これはまだ少々残部がありますので、メールして頂くと進呈いたします。