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2020年 独り言
2019年 独り言
富士山弾丸登山に思う
富士山に関して「一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」という諺があり、その解釈もいろいろあるようだが、登山を好む人間としては、日本一高い山頂を一度も踏まないのは残念だが、登山対象としてはそれほど面白い山ではないので一度登れば十分、という風に解釈している。
したがって、毎年登っている人々の内、大多数は登山が好きで登って来るのではなく、日本一高い場所という観光名所に行く気分で登ってきているのだろう。また殆どの人が山頂でご来迎を見る目的で登るのも当然である。とすれば、山頂に日の出前に着くように夜中に登ることになる。登山道沿いの山小屋の収容人数は限られているので、夜中途中で休憩を取りながら夜明けに山頂に着くように調整して登ることになる。
これが最近、弾丸登山と称して警鐘が鳴らされている。しかし、富士登山に関しては昔からこれが普通の登山形態だったのではないか。夜、下界から富士山を見上げると、登山道を山頂まで途切れなく光の列が続いていた。
ただ、問題なのは登っている人たちの多くが、今までせいぜいがハイキング程度で本格的な登山経験がないことだ。山慣れた人ならば、富士山程度の夜行登山でも、しっかりとした足ごしらえ、ヘルメット、雨具、防寒着、食料、ビバーク用のツエルトぐらいは持って行く。しかし、ニュースなどでの動画を見ると、Tシャツ、半ズボンでサンダル履き、背中には何が入っているのか小さなナップザックという出で立ちで登ってきている人を見かける。これでは近郊の低山でも雷雨などに出くわすとヤバい。それと、もう一つ落石が怖い。富士山は岩石だらけの山だから、近道をしようと登山道から外れて斜面を上り下りすると落石を誘発して、他人を傷つける恐れがある。
今年はもう富士登山のシーズンは過ぎたので、登山者は減ってゆくのであろうが、来年のシーズンに向けてこれからどうやって富士登山者を教育するとか、山頂に救護施設を作るなどの対策が必要だろう。
また、富士山に登るのに出来るだけ登山要素を少なくして、ちゃんとした登山客でなくとも登れるように、もう少し上まで、たとえば七、八合目まで車か、電車で登れるようにするとか。それから、富士山に登る観光客はご来迎が見たいのであろうから、せめて五合目でご来迎が見えるように夜間にバスを運行するとか。
ひょっとして、幽霊だった?
七月初め、吾妻連峰を歩いた。詳しくは別に書くとして、3日目、家形山避難小屋に泊まった。ここは本道から外れて、小径を1km近く登って行かねばならない。道はだんだん悪くなって、あまり通られていない様子で草に覆われている。本当にこの先に小屋があるのかちょっと心細くなる。
四時過ぎ、地図上で破線路が終わるところに、やっと小さな小屋が現れた。赤いトタン屋根で、外見は綺麗な小屋だが、周りは背丈を超すようなイタドリで取り囲まれている。外側はあまり手入れはされていない。まあ、無雪期にはあまり利用はないのだろう。小屋の中は、五六人は十分泊まれるぐらいの広さで、きちんと整頓されている。
まだまだ明るいがすることもないので、寝床を整えて、外の小川で水を汲み、夕食の支度に掛かる。
土間には二足の長靴がきちんと揃えて並べられていたのだが、ふとそちらを見ると一方の長靴に突っ込んだ作業ズボンのようなものをはいた両脚が見えた。ギョッとして見直すと、脚はスッと消えた。見えた時間は長くても0.1秒ぐらいのものだろう。したがって上半身を見る余裕はなかった。果たして上があったのかどうか。気味が悪くなったが、今更、小屋を逃げ出すわけにも行かない。「幻覚、幻覚」と自分に言い聞かせて、食事をし、早々にシュラフに潜り込む。
熟睡。
翌朝、目を覚まして、起き出し、寝具の片付けにかかる。アレッ? 胸のポケットに入れておいた財布がない。シュラフの中、辺り一面を探すも見当たらない。昨夜の幽霊にいたずらされたか? さあ、どうやって大阪まで帰ろうか?
とにかく、小便をしようと外に出かかると、ドアの下の土間に財布が投げ捨てられている。中身はちゃんとある。やれ、助かった。
夜中に寝ぼけてトイレに行ったのかな? それにしても、ベストの胸のファスナーをしたポケットからどうやってこぼれ出たんだ。
謎だらけの一夜だった。
ふと思い出したのだが、この小屋は有名な吾妻連峰雪山遭難と関係あったのでは? 帰宅して調べてみると、果たして20年前の冬、遭難したパーティーは前夜、この小屋で過ごしていたのだった(7名中5名死亡)。
小生は理系の人間であり、霊的なものの存在は信じない。しかし、あの脚は確かに見えたように思える。そう思うのは消える一瞬を確かに感じたことだ。そうではあるが、私の理性はそれを拒否する。一瞬の幻覚だったのだろうか。
禿羊料理(1)
妻は料理が嫌いではなく、味もまあまあで小生としては何の不満もないのだが、歳を取ってきてからは保守的になって新しい料理に挑戦することはなくなってきた。小生は珍しいものに興味があり、スーパーなどでも見たことのないような食品が出ていると買いたくなる。そういう食品を買うと、妻は「私は扱わないから、自分の責任で調理してね」といわれる。そういうものの中で妻も食べてまずいといわないものが少しづつ増えてきて、小生のレパートリーとなってきている。
1)高菜のけんちん汁
小生が生まれ育ったのは徳島県の西部の山間地で、北へ讃岐山脈を越えるとすぐに香川県である。讃岐の有名な郷土料理に「マンバのケンチャン」がある。これは高菜のけんちん汁の異名である。ところが私の育ったところでは、これを「センバ汁」と呼んでいた。冬場に母が作ってくれたこれが大好物だった。アク抜きしたセンバ(高菜)を油で炒め、それに手で握りつぶした豆腐、里芋、アゲなどを加えた醤油汁で僅かに残った高菜のアクのほろ苦さがなんともいえぬホロホロとしたうま味となり、何杯でも食べられた。
小生も何度でも食べたいのだが、残念ながら都会で見かけるのは漬物の高菜だけで生の高菜は手に入らない。たまに田舎の道の駅などで見かけると大喜びで買ってきて作る。この秋にはプランターで高菜を育てようと思っている。
漢詩の暗唱
俳人の金子兜太だったか、ボケ防止のため毎晩寝床で知人の名前を思い出す限り声に出して列挙すると何かに書いていた。なるほどと感心した。ふと、顔を思い出しても名前が出てこないことはよくある。小生も真似をしたいと思ったが、著名な俳人とは違い交友関係が少ないのでこれは小生にとっては簡単すぎるだろう。そこで漢詩を暗唱することにした。
話は変わるが、現在記録されている漢詩の総数はどれくらいあるのだろう。清の康熙帝の命で、まとめられた唐代の詩を集めた「全唐詩」には大体五、六万首収録されているらしい。また、近年になって編纂された「全宋詩」には約二十五万首収録されている。その後、明、清になると時代が新しいだけにもっと多数残っていると思われるので、合計百万首は下らないのではないだろうか。日本だって、江戸時代後期から明治期には漢詩の作詩は隆盛を極めたから数万首ぐらいは残っているのでは。ヨーロッパで作られた詩がどれくらい残っているかは知らないが、これにははるかに及ばないのではないだろうか。漢字文化圏における詩歌の重要性を窺わせる。しかし不思議なことに、漢詩も昔からメロディーにのせて歌われていたはずだが、そのメロディーが実際どんなものであったかについては資料が少ないようである。日本には独特の詩吟というものがあるが、これは日本独自のものである。
さて、小生が現在暗唱できる漢詩はどれぐらいあるのだろうか。ウーン、まあ少なくとも百首ぐらいはあると思うが、じゃあ、二百は? これは自信がない。今まで、「漢詩のページ」でたくさん漢詩を紹介してきたが、これらはほとんど記憶していない。
これからは、各時代の代表的詩人の詩を少なくとも一首は暗記しよう。年を取ってきて、記憶力が衰えてきているので一晩で一首覚えるのは難しい。覚えたつもりでも翌晩になるともう出てこない。いまは、三日ほど前から南唐の李煜の詞を二首暗記しているのだが、もうそろそろ完全に暗唱できるかな。
書道 臨書添削講座を退会
女学生の時から書道をやっていて書道自慢の母から私は兄弟のうちで一番字が下手だと云われ続けてたので、書字にはコンプレックスを持って育った。小学校の時は書道クラブに入って練習したのだが、あまり上達はしなかった。指導の先生は若くてとても綺麗だったな。反面、憧れからか中国や日本の書の古典を眺めるのが好きでもあった。
六十歳を過ぎた頃からは、暇を見つけて独学で中国の古典の臨書をやるようになった。最初に始めたのは初心者でも取っ付きやすそうな隷書。それも端正で華麗な「曹全碑」をボツボツと書き始めた。それから楷書を少々やっていたが、やがて目にとまったのが北魏の鄭道昭「鄭羲下碑」である。その力強くも美しい書体に嵌まってしまいこれを習いたいと思った。ただ「鄭羲下碑」は石に彫られたもので、手本として手に入るものは拓本のコピーである。これを見ながら書き始めたが、全く筆の運び方が判らない。これは独学では無理だ。しかし何とか書きたい。近くに適当な書道塾があればよいのだが、探す手がかりがない。そこでネットで検索して渡部大語先生を見つけたのが2007年の終わりであった。
その後、顔真卿の「祭姪文稿」、智永の「千字文」、黄庭堅、米芾など、楷行草隷にわたって、大体一年に一種づつ習ってきた。
今年の七月で八十歳となるので、断捨離の一環として臨書の通信講座の受講を終えることにした。丁度15年になるのでキリもよいだろう。
先生の励ましにつられて長々と続き、ずいぶんと楽しませてもらった。その結果は大して上達した気はしないが、下手を気にせずに気楽に筆を運ばせることが出来るようになったぐらいのことか。添削の臨書は半紙一枚に四字づつ書くかなり大きな字で、必ずしも原典の字の大きさを反映したものではなかった。今後は自習でいろんな大きさの字を書けるようになりたいと思っている。特に自作の漢詩を色紙に書けるようになるのが今後の目標だ。それと仮名文字も少し習ってみたいと思っている。
2022年回顧
昨年はコロナは全く治まらないし、ウクライナ戦争も勃発し世情は散々な年でしたね。 コロナに関しては、次から次へと変異してワクチンを逃れようとしているように見えますね。効果のある抗ウイルス薬が出てこないときりがないような気がします。幸い今のところ重篤な症状がないのが救いですが、これとても死亡率がずっと高い変異株が出ないと決めつけるのも危険な気がします。
ウクライナ戦争についても、ここまで進むともはや単なる停戦で事が収まる状態ではないですよね。ロシアの全面撤退と戦後賠償か、反対にウクライナの全面降伏のどちらかでしか決着は付かないのではないでしょうか。現在、ロシアの方が旗色が悪い様子ですが、ロシアには核兵器という最後手段がありますので怖いですね。第三次世界大戦に発展するリスクも否定できません。
不安な世情の中でしたが、我が一家にとっては幸せな一年でした。思いもかけない三番目の孫の誕生、一番上の孫の欧州留学、長男の結婚等々、まあこれ以降こんなハッピーな年はもうないでしょう。
さて私個人のことですが、これはそれほど目出度い年でもありませんでした。春のサイクリングでは一日100km走るのが難しくなり体力の衰えがますますひどくなりました。これではもうテント担いでの山行はもう無理かな? 夏には三回目のコロナワクチン接種副反応をきっかけに頸椎神経管症を発症し三ヶ月ほど右肩痛で逼塞しておりました。また12月になってインフルエンザ(多分)に罹り10日ほど寝込んでしまいました。
そういったことで、今年は目立ったアウトドア活動は行っておりませんが、2月に「家康伊賀越え逃避行」の跡を尋ねて、大阪堺から伊勢白子まで一泊二日のサイクリング、4月になって「宮崎県の二河川(一ツ瀬川、耳川)を走る」3泊4日のサイクリングの二つだけ、山はというと7月に近江己高山(923m)という日帰りハイキングコースの山の山頂近くの寺院跡でテント泊、秋に家内を連れて北アルプス涸沢まで3泊4日ののんびり歩き、友人と南紀古座川へキイジョウロウホトトギスを見に1泊2日のドライブをしたぐらいだったでしょうか(ほとんど歩いていない)。
こんな状態で家に籠もることが多くなったので、これではいかんと老人会に加入し、囲碁を再開しました。もう二十年ぐらい打っていなかったのですが、定石など思い出しながら打っています。それと詩吟を始めました。これは全く節抜けでいつまで続くことやら。 この7月で満80歳となります。余生ですのでいつ死んでもたいした心残りはないのですが、孫が可愛いのでもう少し成長するのを見届けたいとも思っております。