木曽の渓谷 -田立滝・柿其渓谷・阿寺渓谷- (Dec/2023)
板取川界隈 (Oct/2023)
吾妻連峰山行 (July/2023)
宇治上神社 −宇治から醍醐まで - (Mar/2023)
江北・若狭ハイキング (June/2022)
北アルプス 上高地から天狗池往復 付:白山山系刈込池 (Nov/2021)
無謀な登山(竜馬ヶ岳−京丸山縦走敗退 1977.03の記録) (Sept/2021)
江濃越国境縦走 -2002.03の記録 (Apr/2021)
高槻歴史散歩 (Mar/2021)
熊野古道小辺路 (Dec/2020)
大山−船上山縦走 (Nov/2020)
花の秋田駒ヶ岳 (Aug/2020)
54年前(1966)の大山−蒜山縦走と下帝釈峡の記録 (July/2020)
北摂妙見山−歌垣山縦走ハイキング (June/2020)
中国地方軽登山 (June/2019)
半世紀前の南アルプス南部縦走 (April/2019)
柏原水仙郷−信貴山ハイキング ・ 北摂大船山ハイキング (Feb/2019)
苗場山、秋山郷切明温泉から野反湖へ(Oct/2018)
谷川岳−平標、赤湯 (August/2018)
四国山行 −別子銅山・笹ヶ峰・平家平− (June/2018)
高島トレイル 後半 (Dec/2017)
百間山系 サイクリングとハイキング (Nov/2017)
岩手山−八幡平縦走 (August/2017)
高島トレイル 前半 (June/2017)
夜歩く (Feb/2017)
会津中街道と那須岳 (Nov/2016)
思い出の山 〜平ヶ岳〜 (August/2016)
鈴鹿 イブネ-銚子ヶ口 (July/2016)
魔女の一撃 (Jan/2016)
大和高原歴史散歩 (Jan/2014)
沼島散歩 (Oct/2013)
初めての単独行 (Jan/2013)
初めてのビバーク (Jan/2011)
オーストラリアのブッシュウォーキング(Jan/2011)
再び「キンチヂミ」の話 −ノルウェーフィヨルド紀行− (Sept/2004)
補陀落浄土 (June/2002)
金縛り −残雪期、美越国境山行−(May/2002)
先輩のシャモジ(Feb/2002)
お医者さん、いませんかー(July/2001)
巨樹の終焉(June/2001)
山小屋はギュウギュウ詰め (April/2001)
ヒヤーッとしたこと 其の二 遠山川易老沢(April/2001)
ヒヤーッとしたこと 其の一 双六谷(Mar/2001)
明神平雪中泊(Mar/2001)
「キンチジミ」の謎 (Feb/2001)
嫌味な親爺 (Feb/2001)
骨折 (Jan/2001)
日高幌尻岳 (Jan/2001)
初めての遭難もどき (Jan/2001)
沼島集落と神宮寺 | 沼島八幡神社社叢 | 神宮寺庭園 |
集落の北のはずれから山に入り、島を時計回りに一周することにする。蒸し暑い日であるが、木陰に入るとひんやりとして気持ちが良い。島の最高地点は100mちょっとなので大した登りはない。道は軽自動車が通れる程度の車道である。
島の北端近くでトラロープの道しるべを伝って黒崎に下る。黒崎には「鞘型褶曲」という一億年ほど前の地質のプレート運動によって出来た海苔巻き状の岩石が露出している。世界で数例しかない珍しいものらしい。大潮の干潮時でよく観察できる。
黒崎への下り道 | 黒崎の浜 | 鞘型褶曲 |
元の遊歩道まで戻り、散歩を続ける。道ばたにビワがたわわに実っている。ピンポン球のように丸くて小さいが、食べてみると充分に甘い。道ばたにポツポツと何本も生えているから、誰かが食べ捨てた種からの実生のものだろう。今度はヤマモモが実っている。魁猿は大喜びでぱくぱくと食べる。「コラコラ、落ちているのまで拾って食べるなよ。」ゲップが出るほど食べている。
遊歩道 | ビワ | ヤマモモ |
灯台から坂を下り海辺に出ると、上立神岩が見える。イザナギ、イザナミ両神の国生み神話のシンボルだ。海がきれいだ。
ここから南半分の遊歩道を歩く。この遊歩道沿いにはミニ四国の石仏が点々と祀られている。それを辿りながら、松食い虫にやられた松林の中を歩いて集落の南側に降りてきて沼島の散歩はおしまい。
沼島の海岸 | 上立神岩 | ミニ四国霊場石仏 |
夕食は食べきれないほどのハモ料理であった。
宿の水槽 | ハモ鍋 |
初めての単独行(紀伊山地)
昭和38年(1963)、大学二年の夏休みも終わろうとしていた頃だから、今からちょうど50年前になる。この年の夏休みは、渓流釣りクラブの夏合宿に飛び入り参加して、釣り道具をそろえて岩手県まで入ったのだがあまり釣れずフラストレーションが残った。
それで、近畿地方でも十津川辺りまで行くとあめごがどっさり釣れるだろうと地図を眺めていると、十津川支流の神納川というのが目に入った。長大で上流は人家が全くない。それに滝記号や岩記号がなく初心者でも谷沿いに歩けそうだ。源流は護摩壇山というこの辺りの主峰がある。またここまでは高野山から尾根続きだ。という風にだんだんコースが見えてきた。
第一日 記録がないので時間は全くわからないが、高野山の大門を見上げた記憶はある。早朝大阪を出発して高野山へケーブルで上がったろうから、だいたい9時頃だろう。ここから有田川上流の新子部落へ下った。軽自動車がやっと通れるほどの道だ。途中で軽トラックに拾われたような気がする。「アラタシまで乗せてくれませんか」と頼んで、「アタラシと呼ぶんだ」と笑われた覚えがある。
新子から箕峠までたいした距離ではないが暑い日差しと草いきれの中、大汗を掻きながら登った。高野龍神スカイラインができるのはずっと後のことなので高野山から簑峠まで尾根伝いの道があったかどうか? あったらそちらのコースを取っているだろうから、少なくとも当時の五万分の一地図には載っていなかったのだろう。
峠から尾根伝いに杣道を南下する。途中からシトシトと小雨が降ってきた。当時の雨具は薄いビニールのポンチョである。枝など引っかけるとすぐに破れる。護摩壇の避難小屋まで行くつもりだったが、夕方になって道脇にあった山仕事の休み場で泊まった。四本の掘っ立て柱に片流れの桧皮の屋根を葺いてある。しゃがんで入れるぐらいの高さで、ちょうどひと一人が横になれる大きさだ。
実はこの頃、宿泊用具は寝袋以外何も持っていなかった。それで1x2メートルほどのビニール布を買って、ポンチョと併用して野宿するつもりだった。ホエブスのようなコンロも持っていなかったので、たぶん固形燃料ぐらいを使ったのだろう。まあ、コッヘルぐらいは持っていたと思う。
初めての一人での野宿の怖かったことは今でもありありと記憶に残っている。これは「動物記、オオカミ」に書いた。
第二、三日 雨はたいしたことはなかったようで、朝飯は避難小屋へ着いて火をおこして食べた。護摩壇の頂上へ登ったかどうかの記憶は無い。
神納川への下りはしっかりした道だったので、たぶん今の地図にも載っている道だったのだろう。下りたところは広い河原の穏やかな流れの場所だった。竿を出してみたが全く釣れなかった。始めたばかりの釣りの腕はからきしダメだった。
神納川下降の記憶は断片的な記憶がわずかにあるだけである。途中一泊しているはずだが、どんな場所だったか全く覚えていない。早朝、ちょっとした難所を徒渉した記憶が残っているだけである。
野々原、井ノ岡といった集落名が地図に載っていたが、とっくに廃村となっていて廃墟が残っているばかりであった。
井ノ岡からしばらく下ると、右岸に工事中の林道が見えてきた。林道へ這い上がると、飯場があり中には男が一人所在なげに座っていた。私が竿を持っているのを看て、明日は休みだから、今晩ここに泊まって一緒に釣りをしようと誘われたが、なぜか断っている。こちらも暇なはずで、誘いに乗っていてもよさそうなはずだが。
林道を歩いて午後、中流のちょっとした集落、五百瀬に着いた。居合わせた小学生にここに旅館があるか尋ねると、旅館の場所を教えてくれた。行ってみると、あまりに粗末な建物なので入るのを躊躇して十津川本流まで歩こうとすると、後から着いてきた小学生が「小父さん、ここですよ」と言う。19歳で小父さんと呼ばれたのもショックだったが、こうも親切にされたのでは仕方が無い。そのうち中から本当の小父さんが出てきて、「高いこといわへんから、泊まって行けや」 一泊400円は確かに当時でも安かったが、晩飯は粗末で大変辛い塩鯖が付いていたのを覚えて言る。それとせんべい布団の重かったこと。
第四、五日 まだ日程が余っていたようで、十津川本流にでて瀞峡に向かった。新宮行きバスで十津川を下り、熊野本宮を過ぎて、宮井で下車。北山川を少し歩いたところにあった船着き場からプロペラ船に乗った。当時、もうジェット船があったかどうか忘れたが、船尾に大きなプロペラをつけてその推力で走るプロペラ船が主で、瀞峡から新宮まで往復していたようだ。この船は当時はまだ観光と言うよりは新宮川(熊野川)、北山川沿いの人々の交通の便としての役割が大きかったように思う。
途中、いくつかの船着き場で客の乗り降りがあり、船は瀞八丁に入って行く。故郷四国の大歩危小歩危の美しさは知っていたが、ここの幽邃さはまた格別である。しばし、瀞八丁の景色に酔いしれる。
終点の田戸で下船。
神納川から後のことは予定にはなかった思うので、地図や行程の情報は持っていなかったろうから、田戸でいろいろ訊いたのだろう。とにかく、北山川を上流へと辿った。ここから先の北山川沿いにはいくつか集落があるが交通の便は足だけである。
この辺りは和歌山県、三重県、奈良県の境界が複雑に入り組んでいて、田戸まで来ると三重と奈良県に挟まれた和歌山県の飛び地である。これはこの辺りの住民が舟で新宮へ出るのが一番便利だったかららしい。
田戸から今の地形図にも残る破線路を辿り、峠を越えて東野部落を過ぎ、立合川の河原で一夜を過ごした。
翌日も破線路を辿って北山川を上流にさかのぼり、小松部落、この辺りは川筋を忠実に辿り、河原や岩の上を歩いたことを覚えている。あとは何も覚えていない。小松ダムが当時あったのかどうか? とにかく北山村の中心地、大沼まで歩いたと思う。
ここから木本行きのバスに乗った。バスの運転手に木本には汽車が通っているかどうか尋ねたから。木本駅は現在の熊野市駅だ。
これでおしまい。五十年前のことにしては我ながらよく記憶に残っている。初めての単独行とあって、大分緊張していたのであろう。
初めてのビバーク
2011年6月、初めてビバークなるものを経験した。いわゆる、野宿である。
ビバークにも二種類あって、一つはあらかじめ予定してあり、準備をして行うフォアキャスト・ビバークであり、最低、ツエルトやシュラフカバー、炊事用具ぐらいは持って、軽装で距離を稼ぐ山行などで行う。従って、季節にあわせて快適とは言えないまでもぐっすりと寝られる程度の用意はしてゆく。小生などは非力であるから出来るだけ軽装で行こうと、しばしばこれを行う。今年のGWに行った四国剣山系縦走もこれに近い装備であった。
一方、想定外の野宿がフォースド・ビバークである。日帰りのハイキングに出かけて道に迷い、一夜を山中で過ごすというタイプのビバークである。小生、これは今までやったことがなかった。まあ、したいと思って経験できるものではない。
6月下旬、山仲間のKさんの発案で、大峰のバリハイルートを歩くことになった。バリハイという言葉を初めて知ったのだが、全くのヤブ漕ぎではなく、一般の登山地図には載っていないが踏み跡程度はあるといったコースのようである。さて今回のコースは歩行時間約9時間、大阪からの往復の車の時間が4時間として、日帰りにはかなりきわどいコースである。ちょっと不安であったが、思い切って参加することにした。暑い季節だから、装備は雨具、昼飯、非常食としてのソイジョイ2本、500mlのペットボトル2本、それとハイキングでも必ず持って行く一人用のツエルト、ヘッドランプぐらいである。一行は72歳、70歳(リーダー)、68歳(小生)の男性、中高年の女性2人である。皆、山の豊富な経験者である。
8:30、大峰山脈西側の舟の川と支流ヒウラ谷の合流点、湯ノ又から登り出す。天候は薄曇りだが雨の心配はない。ここから中尾の稜線を明星ヶ岳まで辿る。初めは植林の中の道である。時節柄、結構暑い。植林を抜けると雑木の中、踏み跡ははっきりしている。ブヨの大群に襲われる。小さなブヨで夏用のタイツの網の部分にもぐり込んで噛みついてくる(家に帰ってタイツを脱いでみると、噛み跡がきれいな網目状になっていた。) なんか小生にだけ集中的に攻撃をかけているようだ。服装を決めるとき、暑さのことしか頭になかった。みんなは長袖、長ズボンだし、一人は防虫ネットを頭から被っている。
大した難所もなく、14時、明星ヶ岳山頂。少し予定より遅れているか。
ここから北西に下る尾根を辿る。ここは地図にでているルートで歩きやすい。1725mのピークから西へ延びる尾根を下り出すが、ここで道を間違える。みんなGPSを持っているのみ誰も予定ルートを入力していない。1時間ほど山の斜面を這いまわってやっと予定ルートに出る。もう4時だ。しかしまだ明るいうちに林道まで出られるだろう。
5時半、ついに決定的な間違い。ルートからはずれて南へ下る支尾根を下り出す。しかし、ここには古いテープのマークがあったので、慎重に探せばここから下の林道に繋がる踏み跡はあったのかもしれない。先を急ぐKさんは、斜面を斜め下へと下って行く。ちょっと、ここは真下に下る方がいいんじゃないかな? テープがついていないか目をこらすが何もない。一同、黙ってKさんについて行く。踏み跡は山腹を真横に辿り出す。これはもう明らかにケモノ道だ。
6時半、Kさんが、引き返そうかと提案するが、今からでは出発点まで帰れない。それより、ギャンブルで100m下の林道まで下れないかと急斜面を下ってみるが不可能のようだ。
7時、幸い近くに水場があるので、ビバークすることに決定。ちょっとした窪みに、雨具を着込んで横になる。ツエルトは女性たちに提供する。ほんとこの季節で好かった。結構快適に寝られそう。携帯は通じない。帰ったら女房に叱られるだろうな。それより心配なのは、明日の勤務だ。私がいないと診療所が開けられない。
「Kさん、明日は何時に出発しますか?」「明るくなってからでいいじゃないですか」「明日、9時に出勤しないとまずいんですけど」
翌朝、4時、まだ暗いうちに斜面を登り出す。順調に行けば9時は無理でも、10時までには出勤できるだろう。ところが、少し登ると10メートル程の崖がずっと続いている。ああ、こりゃダメだ。崖を乗り越えて稜線に出たのは5時。後は何もなく、急いで歩いてやっと7時半出発点に帰った。車で帰る途中で電話して、代理を手配してもらう。ヤレヤレ、きわどいところだった。女房殿にこっぴどく叱られたのはやむを得ないことであった。
多分、一人で歩いていたならば、慎重に歩くのでこんな事態にはならなかっただろう。リーダーに任せきりにして、あとの我々は全く地図を見なかったし、GPSを参照することもなかった。また、GPSに予定ルートを入力していればなんと言うことはなかったのも勿論である。時間に余裕を持った計画と、準備が必要だとつくづく感じた山行でした。
オーストラリアでは、ハイキングのことをブッシュウォーキングという。登山という言葉もないようである。もっとも登るような高い山もないのかも知れないが。
1987年7月だから、小生44歳の時である。オーストラリアのシドニーで基礎医学の国際会議が開かれ、出席することとなった。プログラムを見てみると、間に2日の空白期間がある。その機会に少しオーストラリアの山野を歩いてみようと、山の道具をトランクに詰め込んだ。
当時はインターネットなどはないから、日本で得られる情報は僅かなものであったが、地図で見るとシドニーの東にブルーマウンテンという国立公園がある。ここら当りが適当だろうと考えた。シドニーから列車で数時間の所だから、少なくとも一泊は山中で泊まれる。
気になったのは、此の地の有毒な動物である。靴を履くときは必ず振ってから履け、中によくサソリが入っているとか、タイガースネークという世界有数の毒蛇がいるとか、毒蜘蛛も多いらしい。会議の暇に市内の博物館に行って毒蛇の標本を見る。タイガースネークは一応縞模様はあるが、地味な姿の蛇である。
次にブッシュウォーキング専門店に行って、情報を仕入れる。今、南半球は冬に当り、毒虫の心配はないとのことで一安心。ついでに一泊二日で行けるようなコースや近くの日帰りコースを紹介してもらい、地図や必要な用具を少し仕入れる。
ロイヤル国立公園
一日、会議をさぼって早朝シドニー中央駅から鉄道
残念ながら、当時使った地図が見あたらず、20年以上経った今ではどう歩いたかは定かではないが、多分駅から東に向かってシドニーと公園を距てる湾に沿って荒野を突ききり、海岸に出たのであろう。ただ、今も記憶にあるのはまさにブッシュウォーキングというのがぴったりの西も東も分らないようなだだっ広い荒野の背丈を超える灌木の中の道を脚が痛むなるまで歩いたことと、日本では見られない植生の珍しさだけである。
午後3時頃であろうか海岸の町(Bundeena?)に着き、対岸に連絡船で渡り、鉄道でシドニーへ帰った。
ブルーマウンテン国立公園(Blue Gum Forest)
会議が終わり、午後の列車で西へ、ブルーマウンテン公園の中心地Katoombaの次にあるBlackheathという寂しい駅に着く。あいにく土砂降りの雨となった。はて今夜泊まれるような宿があるだろうか? 同じ列車を降りた人に聞くと、二軒ほどホテルがあるとのこと。駅のすぐ前の宿に飛び込むと幸い空き部屋があった。ヤレヤレ。
夕食は大きなラムチョップ。これがまた臭みが全然なく旨かった。これ以来チャンスが有ればラムは食べるようにしている。この辺りで標高は丁度1000mである。幸い雨は止んだが、夜は冷える。
翌朝は晴れ。町外れの展望台に向かう。ブルーマウンテンは奇妙な地形だ。標高1000mの高原の上に人々は住んでいて、そこから遙か下に深く切れ込んだ渓谷が流れている。渓谷沿いは無人地帯である。彼方に対岸の岩壁が見える。この辺りに沢山あるユーカリの木から蒸発したオイルのため山全体が青く見えるためブルーマウンテンというらしい。
ルートはここから岩壁に作られた道を崖の下へと下って行く。実は昔のことでよく覚えていないのだが、今地図を見ると崖の高さは200m以上あるみたいだ。しっかりした道で怖かった記憶はない。途中大きなシダ類がいっぱい生えていて上から滝が落ちていた。下へ降りると谷川に沿って下流へと下って行く。谷川についてもすっかり記憶から消えている。実はカメラの中でフィルムが空回りして、この山行の写真が全くないのである。
途中で一人のハイカーと出会った。彼に今夜泊るBlue Gum Forestで一番心配している水の補給について聞いた。何しろ山の上は人家がいっぱいあるのでどの流れが安全で、どの流れに下水が混じっているか分らない。彼は一つだけ安全な流れがあると教えたくれたが、何しろこちらは英語がはっきり聞き取れないので、自信がない。そうすると、彼は白い錠剤を一個くれて、これを入れると消毒されると云った。まあ、いずれにしても湧かして飲めば重大なことにはならないだろうと、たかをくくる。
Blue Gum Forestまでどれくらいかかったか覚えていないが、いずれにしても距離からして昼頃にはこの渓谷の核心であるBlue Gum Forestについたであろう。標高は300mぐらい、約700m下っている。Blue Gum Forestは巨大なユーカリの木が立ち並ぶ林でこれはちょっと日本にはない感じの森である。地面にはいっぱい動物の糞が落ちている。カンガルーのものかと思ったが、多分これは乗馬トレッキングの落とし物だろう。
これ以上進んでも仕方がないのでここでキャンプすることにする。ツエルトを張って、午後はノンビリと過ごす。水も地図上から見て、多分これが安全な流れだろうと思われるのを見つけた。夜は何を食べたんだっけ?
如何に標高が低いとはいえ今は冬である。レスキューシートだけで一夜を過ごすのは寒かった。
今日も晴れ。日が射してくるとポカポカと暖かい。本流のGrose Riverを上流へ遡って行く。流れる水の景色は日本の渓流もそうは変わらない。トロトロと3、4時間歩いて、最後に絶壁を登ると上の林道に出た。何と上は雪が舞っていて、たいへん寒い。やはり日本の山登りとはちょうど逆だ。林道を1時間ほど歩くと国道に出る。通りかかったタクシーでKatoombaへ。
Katoombaはこの辺りの観光の中心地のようで、賑やかである。ケーブルカーで崖を下り、渓谷の底を少し散歩する。
シドニーへ帰るとすっかり暗くなっていた。
写真はKatoombaの風景
今月はヒヤッとした話ではなく、背筋がゾーッとした話を書こう。従って、何かに取り付かれていなければ命には別状ない話である。
2年前まで、三重県伊賀市で週に3日働いていた。火曜日の早朝、車で西名阪・名阪国道を走って伊賀上野に行き、2晩、勤務先の寮に泊って、木曜の夜帰阪するという生活を3年間続けた。仕事はキッチリ9時から5時の勤務であったので、早朝や夕方に近郊を自転車で走り回ったり、伊賀の低山(油日岳、霊山、錫杖岳など)を登ったりしていた。おかげでこの辺りの道は土地の人よりも詳しくなった。
そんな中での遊びに、夜間ハイキングがあった。まず地図の上で道の有無にかかわらず、この谷を遡って、この尾根を登るといった計画を立てる。こはあたりは山というよりは岡といった丘陵地帯なので、崖とか岩場といった危ないところは少ない。そうして夜になって出発点まで車で行き、GPSとヘッドランプを頼りに藪に突っ込んでゆく。ヘルメットと防護眼鏡は必須である。暗闇の中から木の枝が撥ねてくるので、眼瞼反射が働かず角膜に直接枝があたる。一度、これにやられて、その時は幸い角膜に傷はつかなかったのであるが、三日ほどヒリヒリと痛んだ。
そんな事をして楽しいかって? 全然楽しくはない。景色は見えないし、頭から蜘蛛の巣だらけになるし。ただ、夜の山の気配の中に身を浸すだけのことである。
ある夜、いつものように蜘蛛の巣だらけになって、ようようのことで藪から這い出した。さる集落の背後にある小山である。出たところは尾根の空き地で、星明かりの中に一間四方ほどの荒れたお堂が見え、その周辺に十数本の木の墓標が建っている。墓標は新しいのもあるが、大体は朽ち果てて倒れかかっている。土葬墓地に迷い込んだのだ。暗闇のなかの土葬墓地は正に幽明の境にあるかの雰囲気である。今にも鬼火が漂いそうだ。神仏、霊魂などは信じない私だがさすがにここは気味悪い。背筋に寒気が走り、お堂に一礼してソソクサと逃げ出した。背中に何かがついてきている気がした。
この地方には今でも土葬の習慣が残っているようである。集落のはずれには土葬の墓地があり、昼間でもちょっと足を踏み入れるのが憚られるような雰囲気である。これに比べると、墓石が立ち並ぶお寺の墓地などは陽気なものである。勤務先の若い同僚たちに聞いてみると、お爺さんお婆さんは土葬だったがそれ以降は火葬になったという家が多く、やはり土葬は減少しているようである。しかし、真新しい墓標が立っているところを見るとまだ続いているようだ。墓地のスペースは何百年の間一定であろうから、墓標が朽ちてしまうと、次の仏さんが埋葬されるのだろう。墓堀は部落の共同作業らしく、当番になると大変らしい。掘っていると当然昔の仏の骨が出てくる。
因みに私の出身地は四国の山村であるが、土葬は昭和20年代までだったようである。我が一族でも昭和24年の叔父の埋葬が最後であった。ただ、山奥の集落ではまだ土葬の習慣が残っているらしいとは、田舎の家を守っている弟の話である。
感染性角膜炎
何度もお伝えしているが、九月末山行の時感染性角膜炎にかかり、一時失明状態となった。登山にこんなリスクがあるとは夢にも思っていなかったので、少し詳細に書いて皆さんの山行の参考にしていただきたいと思う。
今年のシルバーウィークは長かったので、餓鬼岳から燕、表銀座、槍、それから双六方面に足を伸ばそうと計画した。ところが家内に連休後半は孫を連れて一泊旅行をするようにと休みを値切られ、槍ヶ岳までの山行となった。
無事、槍までの縦走を終えて槍ヶ岳山荘で一泊、下山は上高地か新穂高か迷ったが、どうも上高地は大変な混雑でその日のうちに大阪へ帰れない可能性が高いらしい。ということで新穂高へ下ることにする。
午前中の槍平から新穂高への道はちょうど日蔭となっていて、サングラスの必要はない。快調に下り、槍平小屋を過ぎた辺りで登山道に覆い被さっている灌木(タニウツギか何かであった)を手で分けながら通り抜けているとき、木の葉が軽く左眼の角膜に触れた。
通常、こういった異物の侵入から眼を守るため、眼瞼反射という反射機能があり、異物が瞼に触れたり眼に近づくのを感じたりしたときは瞬間的に目をつぶるのであるが、この時は木の葉の近づく角度が悪かったのか、あるいは歳をとったせいで反射機能が鈍くなっていたのか、この反射が間に合わなかった。
さて、その時は角膜に木の葉が触れたなと感じたが、特に痛みも後に残る違和感もなく、そのまま新穂高に下山した。新穂高では何時もここに下山したときに利用するバス停前の無料の公衆浴場に入って汗を流した。ひょっとすると、これが運の尽きであったのかもしれない。
大阪までの帰りのJRの中では少し左眼に羞明感があったものの、読書などしながら列車に乗っていた。
翌日は、天橋立まで家内とドライブして息子一家と合流する予定で午前中出発した。出発時は、もう明らかに左眼に異常があり、ひどい羞明感、流涙、痛みがあり、この時点で家内に眼を看てもらっていたら、角膜に白い斑点が認められたはずであり、旅行を中止して病院に受診できたのだが、みんなへの迷惑を考え、高をくくって出発してしまった。
天橋立では苦しさを忘れて、孫達と楽しい一時を持ち、またご馳走で大酒を食らったのであるが、その翌日になると眼の症状はさらにひどくなり、左眼全体が腫脹し、全く視力もなくなり、涙が止まらない状態となった。天候も悪かったので予定を変更して帰宅したのであるが、帰りの運転は息子に頼まなければならないほどになっていた。
翌日は連休明けで、早速かかりつけの眼科に受診したのであるが、医師は診るなり、「ひどい状態ですね」。写真を撮ってみせられたのだが、本体黒く見える瞳の部分全体が真っ白に何かで掩われた状態となっている。これでは見えるはずがない。状況からは、真菌の感染の可能性もあるが(山などで樹木などで傷が付いたときはカビ類が感染することも多いとのこと)、見たところ細菌のようであるとのことで、直ちに抗菌剤2種類の点眼を始めた。
その週末はそのまま治療を続けたが、改善の様子が見られず、月曜日に阪大眼科角膜外来に紹介されたが、そのまま入院となった(他院紹介)。
入院して、1時間毎の抗菌剤(2剤)点眼、朝夕の抗菌剤点滴、夜の経口抗菌剤と抗菌剤漬となった。さらに眼球結膜(白目の部分)への抗菌剤の注射(先に少量の麻酔薬を注射し、その後0.2ccほどを注射するが、なかなか痛いものである)を行った。幸い、結膜注射が効果を示し、瞳の周辺から白い部分が融けて透明部分が少しずつ出てきた。
最初、一ヶ月の入院予定であったが、改善傾向が定着し、点滴終了により自宅療養が可能になり、2週間で退院となった。しかし、角膜表面の傷は残っており、角膜上皮が完全に掩ったのは2ヶ月後の11月下旬であった。これで眼の炎症症状は完全になくなったのであるが、視力の回復は別物である。以前の視力は1.0あったのであるが、いまは0.1あるかないかで、両眼視はできず、遠近感が認識できない。日常生活の大部分は片眼でもこなせるが、登山はちょっと自信がない。山道で遠近感がないと、ストックを頼りにソロソロとしか歩けない。車の運転も不安で現在は4キロ以内しか運転していない。
視力がどこまで回復するかは、あと半年ぐらいは経過を見ないと分らないらしい。その後は角膜移植も考慮対象となるとのことである。
今回の事件を振り返ってみると、ここまで状況を悪くしたのはやはり対処が後手後手と回ったことであろう。それと以後は絶対に防護眼鏡を着用しよう。
以前より東北の和賀岳が秘境の山であることは聞いていたのだが、わざわざ1400m程の山に関西から出かけるのもどうかと思っていた。ネットで調べると近年稜線の縦走路が開かれ、真昼岳までの縦走できるらしい。これで次の山行は決定。
六月初め、大阪から夜行バス、高速バスを乗り継ぎ、盛岡へ。さらにバスで登山口の西和賀町貝沢のバス停に降り立ったのは午後3時頃。ブラブラと貝沢集落の中を北に登山口に向かって歩き出す。正面に高下岳が望める。一時間足らずで登山口到着。今日はここまで。牧場の端っこにテントを張る。
6/02 朝4:30出発。まあまあの天気、雨の心配はなさそう。だいぶ東に位置するため夜明けは大阪より30分は早い。
キャンプ地夜明け
森の中、少し上るとすぐブナの林となる。尾根伝いに西北西に一時間ほど上ると770m地点。ここで地形図に載っている破線と合流する。ここから下の破線の道は廃道となっているようだ。ところどころ笹が被っているが、たいしたことはなく緩やかな登りが続く。ショウジョウバカマ、イワカガミ、カタクリ、コブシなどが咲いている。
標高1000mを越えた辺りから、残雪が見られるようになる。今年は雪の解けるのが早かったらしい。ツバメオモトの透き通るような純白の花と大きく鮮やかな緑の葉が路傍に群生している。ムラサキヤシオの濃いピンクの花も私を迎えてくれる。シラネアオイの群落だ。大きな紫の花が鮮やかである。ミネザクラも満開である。
ショウジョウバカマ |
イワカガミ |
コブシ |
ツバメオモト |
シラネアオイ |
シラネアオイ |
ムラサキヤシオ |
ミネザクラ |
7時、沢尻山(1260m)。ここで東北地方の脊梁、岩手・秋田県境に達した。この辺りでもうハイマツが現れる。山頂に立つと谷を隔てて高下岳が対峙している。
高下岳
8時、大荒沢岳(1313m)に立つ。羽後朝日岳は指呼の間であるが、踏み跡は見られない。往復には3,4時間はかかりそうなので断念して、県境尾根を南下する。道はここから急に悪くなる。踏み跡程度の道に笹が覆い被さっている。西和賀町役場に問い合わせた答えでは「一部笹で覆われているところもありますが、歩けます」とのことであったが、関西の登山者の感覚ではとてもそんなものではない。笹に掩われていて木の根などの障害物が見えず、進むのに時間がかかる。
10時、根菅分岐。ここで県境尾根と別れ、高下岳に向かう。ここから和賀岳までの県境尾根は数十年間、刈り払いがされて居らず完全に廃道となっている。頑張ってヤブ漕ぎするのも、高下岳に迂回するのも時間的には変わらないかもしれないが、単独行でこのヤブ漕ぎはリスクが大きすぎる。根菅岳を過ぎると、道もよくなり、ブラブラ歩きで高下岳へ。
和賀岳
12時、高下岳。和賀川の深い谷を隔てて和賀岳の大きな山容が正面に対峙する。真昼山地の主峰である。頂上から少し下ったところで女性二人が昼食を摂っているのに出会う。コーヒーをご馳走になり、20分ほど話をする。見れば、スーパーのレジ袋に一杯のコシアブラを入れている。摘みながら登ってきたとのこと。一つかみのコシアブラと、ゆで卵をお土産にもらって別れ、さらに下る。緩やかな尾根の下りは深いブナの林である。ところどころでコシアブラを摘みながら下る。和賀岳への分岐点から和賀川へと下る。
14:30、和賀川出合。サンダルに履き替えて徒渉。穏やかな流れのところで、深さは膝上ほどのところを渡る。痺れるほど冷たい。河岸段丘のキャンプ最適地で少し早いがテントを張る。素っ裸になって体を洗い、夕暮れまでの一時をのんびり過ごす。
6/03 今日は長丁場のため、2時起きの4時出発とする。和賀川から和賀岳山頂までは700m程の急登である。頂上付近の草原に出ると風が強く、霧で視界は全く効かない。
7時、和賀岳頂上(1440m)。寒くて、長居は出来ない。すぐに小杉山から薬師岳に向かう。稜線の道もシラネアオイで飾られている。薬師岳のピークに立つも相変わらず視界はきかず。アルカイックでやさしいお顔の薬師様にお参りして稜線をすすむ。ここで登山者と出会う。この日出会ったただ独りの登山者だ。
甲分岐からいよいよ本格的な縦走コースに入るが、きれいに刈り払いがされていて快適に歩ける。中ノ沢岳のあたりで変わった花の群落を見かける。小さい白い花を鈴なりに着けていて葉がシダそっくりである。帰宅して調べるとオサバグサと言うらしい。ここから峰越林道までの間で数多く見かけた。高度が下がるにつれて、雲の下となり天候は回復してきた。尾根の下、秋田県側にはブナの大森林がひろがっている。岩手県側には和賀川が深い渓谷を作って流れている。
アズマイチゲ? |
オサバグサ |
オサバグサ |
3時過ぎ、風鞍(1023m)。道はここから急に悪くなる。ネットの情報では「05年に風鞍から南風鞍まで、刈払いをしましたが、部分的に笹が濃くなっている箇所があります」とあったが、なかなか。3年経つとこうも茂るかと思われるほどである。しかし刈り払いしていないところと同じくらいの高さに笹は伸びていても、この方向に道があるはずだと思ってじっと見つめると一筋の道が見えてくる。それと刈り払いした跡は笹が素直に伸びていて掻き分けて進むのに抵抗がないが、それ以外のところは笹が絡まり合っていて、とても進入できたものではない。
笹ブッシュの道
4時半、ようやく南風鞍。ここからはきれいに刈り払いが行われており、快適に歩ける。しかし急がないと今日の泊まりの予定、川口県境分岐に着かない。そこまで水場がないのだ。深いブナの樹林帯の中の刈り払いの跡を急ぐ。このブナの林の中で泊まれたらいいのにと少し谷の跡を下ってみるが水は得られそうにない。
6時、峠に到着。むき出しの土が水を含んで靴がズブズブと沈みそうだ。水場は15分下ったところと書いていたが、峠でチョロチョロと湧き出ている流れをコップで受けて水を得ることが出来た。茂みに戻って道の真ん中にテントを張る。
ブナの樹林 キャンプ地・川口県境分岐
6/04 今日はゆっくりとしたコースなので、5時出発。峰越し林道までの刈り払いもよくされている。鹿の子の肩を越えて道は小さな峰をいくつも越えて続く。やがて今日一番の難所、姥捨て山の登りだ。草付きの急な斜面を200mほど登る。花が一杯だ。
登り切るとすぐ下に峰越し林道が見え、正面に真昼岳、女神山が望める。もうたいしたことはない。
峠で車に便乗して峰越の名水を汲みに下る。旨い湧き水だ。帰りは歩き。途中で山菜採りの老人と会う。ニオ(エゾニュウ)を採るらしい。塩漬けにして冬に食べるとのこと。 峠から真昼岳まではよく踏まれた登山道で、2時間ほど歩いて12時半頂上に着く。平日だというのに20人ほどの登山者がいる。ここからは眼下に大曲と横手盆地がひろがる素晴らしい展望だ。田植えがすんで水を満々とたたえた水田が光っている。ああ、秋田小町の里だ。北は高下岳、和賀岳から今回縦走してきた山稜が見える。遙か奥には秋田駒も見える。西にはかすんでいるが鳥海山、南には次に登る焼石岳が見える。
真昼岳から200m程下ると兎平だ。広々とした高原状の尾根の中をのんびりと歩く。レンゲツツジの群落が満開だ。
ほとんど上り下りのない道を進んで女神山直下のコル、ブナの樹林の中にテントを張る。この辺りに水場があるらしいが、見あたらない。しかし、水はたっぷりと持っている。テントを張っている間に、ものすごいブヨの大群におそわれる。サンダルに履き替える間に足の甲が黒くなるぐらいにたかられ、両足はたちまち血だらけとなる。テントの中に転がり込んで、暗くなるまで一眠りする。
真昼岳 レンゲツツジの群落
女神山直下のキャンプ
6/05 5時半出発。30分で女神山頂上。これで真昼山地縦走はお終い。最後を飾るにしてはこの山はお粗末である。真昼岳が終点でよかったのだが名前に惹かれてやって来た。頂上は視界が効かない。頂上に三角点の標石が二つある。一つは三等三角点、もう一つは主三角点と書いてある。
ブナの林の中を下山する。下ったところにある白糸の滝を見る。水量はたいしたことはないが女神の山らしく優美な姿だ。下前川沿いの林道を12km厳しい日差しの中黙々と歩く。流れの中には尺物のイワナがゆったりと泳いでいる。
清水ヶ野、湯本、ほっとゆだでそれぞれ一時間以上連絡待ちをして北上駅に着いたのは3:20。夏油温泉行のバスが出た直後であった。やむを得ずタクシーを奮発する。
「元湯夏油」に投宿。宿に着いた頃から雨。
明日は、気軽な考えで、ここからホイホイと焼石岳を往復する気でいたのだが、宿の人に怪訝な顔をされ、よくよくコースタイムを調べてみるととてもそんな距離ではないことがわかった。だいたい夏油温泉には下山して来る人がほとんどで登る人は稀らしい。焼石登山は今回のおまけみたいなもので下調べは全然していなかったし、私の頭の中では焼石岳と夏油温泉はセットになって強固に結びついていたのでそれ以外のコースが考えられなかったのだ。
天気予報では明日は夕方まで雨らしいので、宿の朝飯を食べて、ゆっくり出発して途中の金名水避難小屋で一泊して胆沢側に下ることにする。
縦走地図(Google map)
6/06 8時、雨の中を出発する。見ないと後悔するかもしれないと石灰華ドームへ寄り道する。やっぱりどうと言うこともなかった。雨が小降りになり、林道から登山道に入った9時頃には雨は止んで日が射してきた。「ああ、この禿羊はなんたる晴男か」。路傍に生えているフキとウルイを少し採る。今晩のおかずにしよう。
300m程の急坂を登り切ると稜線に出る。ぶらぶら歩いて広い山腹を横切って経塚山の登りにかかる。急斜面の残雪。アイゼンが欲しいところだ。怖いので残雪と笹の境界を笹をつかみながら登る。
1時半、経塚山にたどり着く。正面に大きな焼石岳が迫ってくる。山頂はガスに掩われている。雪が多い。アイゼンを持っていないのがちょっと不安である。夏油三山の他の二つ、牛形山、駒ヶ岳もよく見える。南を見下ろすと深い樹林に囲まれた八郎沼がひっそりとした姿を見せている。胆沢の人たちは昔、雨乞いの時にはこの沼に行って龍神に罵詈雑言を浴びせて怒らせて雨を降らせたそうだ。
経塚山 八郎沼
斜面を下ると乾いた砂礫地帯のお花畑。シオガマ、ハクサンコザクラ(雪割草?)、ハクサンイチゲなどが目につく。
シオガマ |
ハクサンイチゲ |
ハクサンコザクラ? |
ブラブラと広い稜線を歩いて、天竺山の肩を越え、牛形山分岐を過ぎると今日の泊まりの金明水避難小屋だ。傍らには金明水が水量豊かに湧き出ている。完成したばかりのような超豪華な小屋に入ると、同宿者が一人いる。明日は夏油へ下るとのこと。テントを張らないですむというのは、なんかとてものんびりした気分になれる。二階建てで四五十人は泊まれそうな小屋を二人で独占できる。
金明水避難小屋
6/07 5時半出発。ガスが濃く、風も強い。予報では今日は晴だったのだが。同宿者に残雪は多いがアイゼンは必要ないと聞いていたので安心して登る。
東焼石から東成瀬道の九合目焼石神社へと向かう。広い雪田で出口が分らずガスの中少し迷う。九合目から大きな岩石の重なるゴーロを山頂へ。
山頂はなだらかで広い。今日は岩手県の高校山岳部の大会とのことで、高校生が数百名登山しており大混雑。ガスと風が強く見晴らしはゼロ。しばらく風を避けて休憩していたが、晴れる可能性はなさそうなので胆沢側へ下山する。いくつもの雪田を渡って銀明水の避難小屋へ。ここで中沼へ下るか、つぶ沼へ下るか迷う。どちらにしても長い道路歩きがありそう。ここで地元の登山者が車に同乗をさせてくれるとの話がまとまり、やれ嬉しと短い中沼へのコースをとる。上沼、中沼は水芭蕉、リュウキンカが美しい。中沼は焼石岳をバックにしてのカメラの絶好スポット。
中沼の眺め
車は途中の「ひめかゆ」温泉での入浴を経由して、わざわざ新幹線の駅まで送ってくれた。帰りはまた仙台から夜行バスで帰阪した。
附記: 私が焼石岳に登っていた日から丁度一週間後に「岩手・宮城内陸地震」が発生した。もし日程が一週間遅れであったなら、あの時刻には東成瀬コース九合目の大きな火山岩が積み重なった場所を歩いていたことになる。無事には済まなかった気がする。
ハンモックテント
以前沢歩きをやっていた頃、キャンプサイトを探すのに苦労していた。沢歩きでは出来るだけザックを軽くするため、テントの代わりにツエルト、シュラフは持たずにシュラフカバーだけで寝る。そうすると、キャンプサイトは林の中で落ち葉の上が最良なのだが、なかなか適当な場所が見つからず河原で寝ることが多かった。河原で寝るのは、背中から寒さが沁み上がってくるし、石が背中に当って快適な寝場所とは言い難い。
それでハンモックで寝たらどうだろうと考えた。場所は五月の南アルプス易老沢右股、ゴロゴロした岩の上にハンモックを吊す。上にはポンチョをフライシートとして張る。ハンモックは登山用具店で買った丸めるとソフトボールぐらいのお手軽なもの。その上にシュラフを載せてもぐり込もうとするが、不安定で転落しそうになる。それで、ハンモックの両脇何カ所に紐を張って安定化を図る。やっとの事で、シュラフにもぐり込む。横になってしばらくはよかったのだが、腰がくの字に落ちているのが段々不快になってくる。寝返りをうとうとするが、窮屈なハンモックの上ではなかなか難しい。暫くゴソゴソやっていたら、古かったのかハンモックの網が破れてズルリと尻が岩の上に滑り落ちた。岩の上に座り込んでのその夜の長かったこと。もう懲り懲りだと思った。
何年かして、L.L.ビーンのカタログにハンモックテントが載っていたので、今度は使えるかと大金をはたいて買い込んだ。これは帆布で作った床にポールで蚊帳を張り、その上にフライシートをセットするようになっていて、まあ考えている仕掛けであるが、なにせ3kg位あって重い。こんなの持って沢には行けない。と言う訳で一度も使わずに何年か屋根裏に転がして置いたが、インターネットオークションに出して売り払った。説明にはあまり使い物にはならないと断っていたのだが、奇特な人がいたものだ。
今年の春、山の仲間がヘネシーハンモックなるものを買ったと掲示板に報告があった。そら、なんじゃ? ネットで色々調べてみると、アメリカで結構流行しているハンモックテントらしく、使用している人たちもまあまあの評価をしている。ああ、沢登りを止めた今頃になって遂に小生が求めていたハンモックテントが出てきたか。取りあえずネットで注文する。早速、庭に張って様子を見る。面白い。ハンモックの底が割れて、そこからもぐり込む仕掛けだ。入って体重をかけると割れ目のベルクロが引っ付いて自動的に閉鎖する。どういう仕掛けか、尻が落ち込まず水平に寝られる。これはいい。
4月の4泊5日の台高縦走はこれを持参した。重さは900gとテントより軽いし、設営、撤収も簡単だ。しかし、寒い。ダウンのシュラフは体の下になっている部分はペチャンコになって全然断熱効果がないと言うことが実感できる。低く張って寝ると落ち葉も上に寝るようにすると暖かい。底の保温を工夫すればなかなか面白い道具になりそうだ。次回の東北山行もこれを使ってみよう。ちょっと雨の対策がまだはっきりしないのだが。
山の会の仲間が大御影山に登ったとの報告があった。大御影山とはどこだろう? 聞いたことがない。インターネットで検索してみると、琵琶湖北の箱館山スキー場の北方にある950mのピークのことであることがわかった。地図上では無名峰である。あっ、ここは登ったことがある。まだ二十代初めの頃である。早速、古い登山記録を開いてみる。
当時、何故か「若狭越」という言葉にロマンを感じ、実行したことがある。
一つは、京都北の周山からソトバ峠を越え廃村八丁、八丁川を下り佐々里、芦生の京大演習林内の枢倉谷川を遡行して杉尾坂を下って虫谷、虫鹿野から久坂に至り、バスに乗って小浜にでた。この山行は枢倉谷川でツェルトで一泊したことと、三食インスタントラーメンを食べてうんざりしたことぐらいしか印象に残っていない。当時、非力な私はいかにして食料を軽くするかに苦労していたのだ。
さて、二つめが「大御影山越」である。昭和41年の春休み、3月中旬早朝、豊中市の下宿を出て、どういう径路で浜大津まで入ったか記憶にないが、とにかく江若鉄道で近江今津へ向かった(まだ湖西線はなかった)。この電車はのろくて今津まで3時間くらいはかかったのではなかったか。
箱館山のロープウェイ駅から当時工事中だった箱館山の西側の肩を越える林道を歩いて、石田川流域に入る。谷沿いに林道を下ると、本流に合流する直前で林道はお終いとなった。この辺り、まだ残雪がかなり残っている。当時、ワカンは持っていないし、雨具もポンチョだけで深いところで30cmぐらいの残雪を踏んで進むのに苦労した記憶がある。支流の河内谷に入った辺りでツェルトを張る。
翌日は竿を出して適当な場所で釣りをしながら上流に進む。二、三度は切られるような冷たい流れを徒渉する。昼頃までに数尾のイワナを釣って、大御影山南稜の麓に至る。ここでイワナを焼いて昼飯。当時は渓流釣りも下手だった。
ここから南稜に取り付く。高度差400m程だから大したことないと思ったのだが、なかなかどうして密度の濃いシャクナゲのブッシュに幅の広いキスリングが引っ掛かって往生した。やっとブッシュを抜けると950mピーク直下である。ここで二日目の泊まり。ここまで尾根筋は雪がすっかり消えている。
昨夜は荒れ模様だったが、起きてみると20cm程の積雪である。頂上は広い雪原となっていて、足跡一つ無い。純白の雪に踏み跡を付けるのはこれが初めての経験だった。
降りしきる雪の中、北に向かって適当に尾根を下ってゆく。暫く下ると、杣道に出たが、あまり通られていないようで半分廃道だ。雪はみぞれとなり、湿った雪でズボンはびしょびしょ、ビニールのポンチョはイバラでずたずたに破れた情けない姿となる。
昼前には能登又谷の川原に降り立つ。ここで盛大な焚き火をやって濡れた衣服を乾かす。ズボンに火が付き、大きな焼けこげを作ったのを憶えている。松屋の集落からはトラックに便乗して、美浜駅前に出て駅前旅館に一泊する。
翌日は梅丈岳に登り、三方五湖を展望し、世久見、食見と海岸沿いに歩いて峠を越えて田烏に出、海岸で一泊。次の日、バスで小浜に出て帰阪、無事「若狭越」を終了したのであった。
尾籠な話
その一
35年ほど前だったかの夏、K君と南アルプス・仙丈ヶ岳に登った。当時は戸台から北沢峠行きのバスはなかったのだろうか、戸台川の広い川原をジリジリと照りつけられながら歩いた。「たまらん暑さやなー。喉がカラカラや。」 川の流れに手を漬けてみる。しびれるほどの冷たさである。コップに一杯汲んで、飲み干す。旨い。もう一杯。三杯目ぐらいを飲み干したときである、胸から下腹部にかけて、ヒヤリとした感じが通り過ぎた。「アレッ?」と思ったとたん、猛烈に催してきた。たまらず茂みの中へ駆け込む。下痢である。そんなに急に細菌や中毒によるものが起きるわけがないので、これは明らかに神経性のものであろう。
それから仙丈小屋までの登りが地獄だった。カンカン照りの中の登りであるから、汗はだらだら、喉はカラカラである。ところが水筒から一口でも喉を通すととたんに催してくる。一発で条件反射が成立したようだ。5,6回も繰り返すと、もう出るものは何もない。されど、我が下腹はなおも茂みに行くことを要求する。手持ちの紙もなくなり、K君に貰って茂みに駆け込む。やっとの事で、仙丈小屋にたどり着いた。
ところが、小屋でお湯を飲むとこれは何ともないのである。頭の中の回路はどうなっとんのだ。がぶがぶ飲んで、喉の渇きを癒す。
余談ながら、翌朝、仙丈ヶ岳の頂上で1時間以上ガタガタ震えながら日の出を待つ。満天の星、濃い藍色の空が段々明るくなって行き、ついに日の出を迎えたときの感激は今も忘れられぬ。
それからの馬鹿尾根も昨日の続きであった。そのうち、馬鹿でもいろいろ工夫をするようになる。一口、水を口に1分ほど含んで十分に暖かくしてから喉に送ると、これはOKだということが判った。冷たい水をゴクンと喉に送る快感はあきらめなければならないが、そんなことは言っておられない。しかし、どうしてこんな事になったのだろう。胃腸に熱い、冷たいを感じる神経はないと思うし、冷たい水を飲んだという観念が条件反射を引き起こすようになったのかもしれない。
このときの山行は、その後、両股小屋、北岳、農鳥岳から大門沢を下って無事に終えたのだった。
その後、数年は同じ症状が続き、山で水を飲むのに神経を使っていたのであるが、いつしか忘れてしまい、また平気で水を飲めるようになった。しかし、この頃から山を歩いているときの水分の摂取量がずいぶん少なくなってきたように思う。同行者がガブガブ水を飲んでいるのに、私はあまり喉が渇いた感じがしない。帰宅後2、3日はいくら水を飲んでも喉の渇きが治まらないのだが。
その二
五月、ブータンに旅行して赤痢に感染した。発展途上国に行くときは、生水は飲むな、加熱していない食物は食べるなとうるさいほど注意されているが、一週間近く経つとつい気がゆるむ。
ブータン6日目、4日間のトレッキングも終了し、帰国のため空港のあるパロまで車で移動中のことである。トレッキング終了地のサムテガンからパロまで5、6時間かかるのだが、途中首都のティンブーで数時間マーケットなどを見物して時間をつぶす。ティンブー−パロ間の道路が工事中で夕方まで通れないためだ。ガイドと運転手はオフィスに帰る。二人でマーケットをブラブラしているとき、調子が悪くなった。お腹がシクシク痛み出したのだ。はて困った。トイレは何処だ。橋のたもとでようやく公衆便所らしい建物を見つける。インド人が中に入ってゆく人からコインを徴収している。助かったと、飛び込む。これで金を取るかといった公衆便所だが、とにかく用を足す事はできた。下痢。
その後、特に腹痛もなく、無事にパロに到着したのだが、それ以後食事の後に必ず一回腹を下すようになった。
帰国時、一応申告しておくかと、空港検疫に下痢のことを報告した。早速検便である。検便されると、ちょっと気味悪くなり、家に帰ると早速家にあった抗菌剤のクラビットを一錠服用した。この一服で症状はすっかり治まった。
翌々日、仕事場に空港検疫から電話があり、赤痢菌が検出されたとのことである。あわてて、お土産を渡したところに事情を告げて、万一症状が出た場合にはすぐに医者に行くようにとお願いする。そのうちに管轄の保健所から職員が事情聴取にやってくる。昔であれば早速隔離されるところであるが、抗生物質がよく効く現在では、隔離はされない。ただ、食品関係の仕事は就業禁止となるらしいが。小生の仕事は老人が多い場所なので、これは休んだ方が無難かと陰性がはっきりするまで仕事を休むこととする。赤痢菌はO157と同じく溶血性尿毒症症候群を起こす可能性がある。怠け者は休みはいつでも、どんな理由でも大歓迎だ。
その後、5日間、クラビットを服用して、2回の検便で陰性となり、やっと解放された。たぶん、最初のクラビット一服で赤痢菌は死滅していたのだろうが。
さて、何処で感染したのだろうか。考えられるのは、トレッキング中の水と食事である。集落には屋外にカランのついた給水所があり、我々も利用していたが、たぶん水源はそこらの谷川であり、消毒などはされていないと思われる。もちろん、そのままで飲んだことはなかったが、歯磨きとうがいをやった。もう一つの可能性は、トレッキング最後の食事で出た野菜サラダである。真ん中には木になるトマトにきれいに飾り包丁をいれて、まわりにはキュウリなどをならべていて、生野菜に飢えている我々の食欲をそそる。コックさんが心を込めて作ったと思えば食べざるを得ないではないか。家内は箸をつけなかった。どうもこれの可能性が高い。今度からは、抗生物質を飲みながら食べよう。
今回は少々気味の悪い話です。
以前、「初めての遭難もどき」でも書いたが、私の出身地は四国の真ん中、現在の
さて、本題に入ろう。
剣山から西北に延びた尾根が二つに分かれて吉野川支流の祖谷川のそのまた支流の松尾川を包み囲む山脈となる。そこには風呂塔(ふろんと、1401m)、石堂山(1636m)、矢筈山(1849m)、烏帽子山(1670m)、寒峰(かんぼう、1604m)などの山並みが連なる。この山域を歩くならば本当に静かな山歩きが楽しめるだろう。この山脈が松尾川と祖谷川の合流地点で尽きるところに中津山(1447m)がある。
この山は松尾瀬戸作なる山人(修験者?)によって開かれ、彼はこの山に入って行方不明となり、神様になったと伝えられている。まあ、遭難したのでしょうが。山頂には中津神社とお堂があり、その近くには修験の行場もある。また、頂上近くに小さな池があり、常に水を湛えて涸れることがないといわれている。夏に神社の例祭が行われるが、そのときにこの池の水をもらって帰り、田に注ぐと日照りにならないといわれ、昔は讃岐からの参詣者が多かったそうである。
私も信心深かった父に連れられて、毎年のように登山した。
小学3,4年の時の夏に登った時のことである。出合という部落でバスを下り、ここから少し上にある松尾という部落まで登る。この部落にある光明寺という寺で護摩供養や、盆踊りを見物しながら夜中になるのを待つ。十二時を過ぎ、涼しくなると出発である。頂上までは四時間ほどであったろうか、ご来迎が拝めるようにと考えてである。懐中電灯をつけての登りであるが、毎年のことでもあり数十人が一緒であるので迷う心配はない。
頂上からの眺めは大したものである。眼下に祖谷渓谷が深く山塊を抉って蛇行しており、対岸にはちょうど中津山と二つで祖谷渓の入り口の門のように聳える国見山(1409m)が対峙し、遠くには石鎚山系を眺めることが出来る。
ご来迎を拝し、神社に参詣して、池の水を沸かして作ったお茶をいただいて一服していると、行場で自殺者が見つかったとのことで登って来ていた警官が、医師である父に検屍を依頼してきた。物見高いのが子供の常である。父の後について、尾根の踏み跡をかき分けて行場へと向った。行場に近づくと、急に気分が悪くなり、むかつきを覚えた。異臭の爲であったのだろうが、そのときは臭いと感じる前に気分が悪くなった気がする。
目の前に4、50度ぐらいに傾いて崖に終わる岩盤があり、鎖がかけられている。岩の中央に一見すると枯れ木のような塊があった。岩の上の松の幹から紐がそれに繋がっている。よく見ると座り込んだ状態の首吊り死体である。岩を滑り降りるようにして首を吊ったのであろう。真夏のことである。一ヶ月以上たっているらしく腐乱が進み、頭部は胴体の横にぶら下がり、白いものが見えている。一匹の蝶が胴体に止まって羽根を休めていたのを今でもはっきり覚えている。
後で聞いたことであるが、この人は片足を切断しており、松葉杖で登ってきたとのことであった。この険しい山道を松葉杖でたどるとは大変な苦行である。頂上近くの急坂でははいずりあがったのかもしれない。山としても行場としてもたいした名のあるところではないのに、この人が人生の最後の場所として選んだのにはどういう思い出があったのだろう。
真夏の日を受けて汗だくになりながら、急坂を必死で死場所へと向う姿を想像するとき、今でもその凄絶さに心ふたがれる思いがする。
その後、何度もこの山には登っているのであるが、行場には近づいたことはなかった。しかし、今は機会があればもう一度訪れてみたい気がしている。
最近は登山もマイカー利用が普通となり、登山口まで車で入るようになった。小生も時流に乗ってしばしばこの方法を利用するが、あまり好きではない。車ではいると、同じところへ戻らねばならないが、小生、ピストン登山が大嫌いなのである。やはり、登山の醍醐味は縦走にある。そうすると、どうしてもアプローチが長くなり、道路を延々と歩くことになる。
昔はそれでも山奥にも集落があり、便数は少なくてもバスが通っていた。今はそんなところはほとんど廃村と化して、さらに何時間かのロード歩きを強いられるようになっている。それに、道端で手を挙げると、山仕事のトラックなどが気軽に止まってくれたものだが、今は事故があったときの補償問題を恐れてかめったにヒッチハイクさせてくれない。
それで、少し昔のヒッチハイクの思い出を書こう。
一番長い距離乗せて貰ったのは、以前ちょっと書いたが、北海道幌尻岳だ。40年近く前、仲間と二人で帯広側から入り、日高側の現在の登山口に下った。ここから当時鉄道のあった振内までは30km以上あるだろうか。午後遅くだったので、途中でキャンプして明日には着くだろうと歩き出したのだが、すぐに道路工事のトラックに拾われた。その日は飯場まで連れて行ってくれ、一泊二食焼酎付のヒッチハイクとなった。親爺も一人寝は寂しく酒の相手が欲しかったようで、遅くまで長話に付き合わされたが宿代としては安いものである。翌朝は勿論振内駅まで送ってくれた。このときの旅では、知床半島でも同じような経験をしている。硫黄山からカムイワッカに下ったとき、やはり道路工事の車に拾われ、飯場で一宿一飯のお世話になり、翌朝、知床五湖まで送ってもらった。北海道の人たちは親切だと感動したのであった。
ダンプカーの荷台に乗ったことある? 手を挙げて止めたまではよかったが、助手席は一杯だから荷台に乗れという。乗り込むと、ダンプは未舗装の道をビュンビュン飛ばす。30分ほどの間、跳ねた、跳ねた。空荷では全然サスペンションが効いていない。しっかりバーにしがみついていないと、飛び上がって外に放り出されそうになる。胃下垂になるかと思った。空のダンプの荷台だけはもうコリゴリだ。
これも40年以上前の話だ。当時、小生は沢歩きに魅せられて、大峰・大台の沢をいくつか歩き始めた頃だった。次のゴールデンウィークは関西有数の名渓である大台東の川に入る決心をした。遡行に2日はかかる初心者の単独行にはちょっと手ごわい渓谷である。それにここはアプローチが大変である。当時は
さて、その夜から豪雨となった。朝になっても止む様子はない。これでは雨が止んでも2、3日は、沢に入るのは無理である。それで、今回はギブアップ。尾鷲に下ることにする。
キスリングの上からビニールのポンチョを着けて土砂降りの中を歩き出す。この雨の中を4,5時間歩くのは鬱陶しいがやむをえない。少し歩くと、現在の国道425号線に出る。今は国道に昇格して舗装されているが、当時は林道で未舗装の悪路だった。トボトボと歩いていると後ろからトラックが通り過ぎて止まった。運転手が窓から顔を出して「乗れ」という。「やれ、うれし」と、駆け寄ると、助手席は一杯だから荷台に乗れと云う。「エッ」と驚いて、見上げると荷台は運転台の屋根を越えて材木が一杯に積まれている。その上に二人ほど作業員が乗っている。この上に上るのはほとんどロッククライミングだ。下から押し上げられ、上から引っ張られてようやくのことで材木の上に腰をおろす。
すぐに車は出発する。長いロードがないと思うとほっとする。やがて峠を越えて下りにかかると、トラックはゆさゆさと左右に揺れだす。未舗装のデコボコ道には当然ガードレールは付いていない。一方は谷底まで数十メートルの崖である。トラックが谷側に傾くと材木の上からは谷底が真下に見える。小生は片手でワイヤーを掴み、片手でザックを押さえて、振り落とされまいと必死である。ポンチョがめくれても直す余裕はない。尾鷲に着いたときは、骨の髄までずぶ濡れになっていた。
その後、東の川は三度単独で遡行しているが、岩登りの要素の少なくて登り易い豪快な渓谷である。
1963年(昭和38年)正月、愛知大学山岳部員13人が薬師岳で遭難死した。彼等は吹雪の中薬師岳から太郎小屋に下山の途中、方角を誤り東の方へ振れて黒部川へ落ちる尾根に入ってしまった。積雪と吹雪の中では、いわゆるホワイトアウト状態となって方角を失ってしまったのだろう。こんなとき、GPSがあったなら何と言うことはなかっただろうにと思う。もっとも、彼等は地図・磁石を持参していなかったというからそれ以前の問題ではあったのだが。
我輩は単独行が主であり、また体力、能力も乏しいので本格的な冬山はやれないが、それでも雪の山岳風景に魅せられ冬季、残雪期の低山にはよく出かける。ここ数年行き続けた岐阜・福井県境の山並は笹のブッシュで縦走路がなく積雪期以外は縦走できないが、春の彼岸過ぎごろには積雪が固まり、わかんを履かなくとも快適に歩ける。また、台高山脈の明神平周辺は霧氷が大変美しいところであるが、積雪はせいぜい1メートル程度なのでスノーシューを履けば歩くのにたいして苦労はない。
雪が深くなれば、登山道に関係なく雪崩に気をつけて出来るだけ尾根筋を辿る。問題は吹雪や霧で視界がきかないときである。登りは高いところへ高いところへと辿ればいいが、巾の広い尾根やピークからの下りで迷う。磁石はもちろん頼りになるのだが、角度が10度ぐらいの差は見晴らしが利かないと確信が持てないが、10度も違うと隣の尾根に入ってしまう可能性がある。大きく下ってしまうと、間違ったと気がついても引き返すのが億劫で、「このまま下ってしまっても、何とかなるだろう。」との誘惑に駆られる。
20年ほど前、やはり残雪期、濃越国境の平家岳に登ったとき、県境尾根のピークからの下りで霧の中、尾根をひとつ間違えた。知らずに下っていると突如尾根がきれた。木にすがって、下を覗くと霧が立ち込めて、谷底が見えない絶壁である。このときは、幸い30分ほどの登りなおしで済んだが、ちょっと怖い思いをした。
昨年三月上旬、濃越国境の美濃俣丸、笹ヶ峰、金草岳から冠山への縦走を試みた。
という訳で、ハンディGPSを買った。
GPS(Global positioning System)は人工衛星からの電波を受けて、位置を特定するシステムでカーナビに使われているものとセンサーは同じだ。ハンディGPSはカーナビほど賢くはないが、100グラム程と非常に軽くて、携帯に便利である。以前は緯度経度が数値で表示されるだけであったが、近年は地図表示の機種が出ている。我輩が購入したのもこのタイプである。地図といっても3X5センチ程度のディスプレーに50メートル間隔の等高線の表示であるから、これがあるからといって山へ行くのに地図が不必要というほどのものではない。しかし、あらかじめパソコンの地図ソフトで予定コースを入力し、これをGPSに移しておくと、雪山では抜群の威力を発揮する。20メートル程もコースから外れるとはっきりと判る。深い森の中では電波が受けられないが、天候は関係ないようである。我輩は頑張って、高度・方位付の機種を手に入れたのだが、これも意外と正確で頼りになる。高度は基本的には気圧変化で測定していると思うのだが、地図情報で補正されているのかもしれない。
これを持参して行った最初の山行は台高山系の薊岳、明神岳、国見山、高見山縦走であった。一度、ちょっとコースを外れたが、すぐに判った。次に、鈴鹿山系の御池岳。この山頂は広大な雪原で、深い霧に包まれていたが、完璧に位置が特定でき、自由に歩き廻ることが出来た。この春、濃越国境に再挑戦したが、幸いの上天気であまりGPSのお世話になることはなかったが、持っているととにかく安心ではあった。
ハンディGPSはサイクリングにも持っていると重宝する。分かれ道で行過ぎたりすることがまずなくなる。それから、速度、走行距離が正確に計算される。また、軌跡が記録されるので帰ってから、パソコンで地図上に軌跡を表示させて、旅を思い出すのもお楽しみである。
しかし考えてみると、いくら尾根を間違えたといっても我輩の登る程度の山では30分も下れば気がつくはずであり、GPSの存在が生死を分ける状況にはなりそうにもない。所詮、安心とお楽しみのおもちゃではある。
燕岳周辺のGPS軌跡:
燕山荘の一周や燕山頂を往復でコースを変えたのがよく分かる。合戦小屋から燕山荘の間で軌跡が途切れているのは樹林帯で電波が受信できなかったところ。
(写真をクリックすると、拡大写真へ移動します)
今度は本当にキンチヂミだった。
以前より、日本にない風景の一つとして北欧ノルウェーのフィヨルドの風景をいつかは見てみたいと憧れていたのであるが、昨年冬、ニュージランドのミルフォードサウンドでその願いを果たした。そこで観光船から見上げたフィヨルドを囲む岸壁、流れ落ちる滝、遙かに望む氷河などの景色はまことに素晴らしいものであったが、ますます欲が出てきて、今度は上からフィヨルドを見下ろしてみたいと考えた。5月頃、某ツアー会社から送られてきたパンフレットをながめていると、その中に「北欧最高峰登頂とフィヨルドハイキング9日間」というのがあった。まさに小生の願いにピッタリの企画である。早速、電話してみると出発まであと3ヶ月足らずだというのにまだ応募が誰もないという。ちょっと心配ではあったが、一応予約を入れた。家内は体力的についていけるかどうか心配ではあったが、海外旅行となると万障繰り合わせてもついてくるという人間であるからおいて行くわけにはいかない。
7月になってやっと催行が決定。一行は8名、我々の他はみんな関東からの参加である。
伊丹、成田、コペンハーゲンを経由して、空路スタバンゲルというノルウェー南西部の港湾都市に到着する。ここはノルウェー第四の都市(といっても人口11万しかないのだが)で、北海油田の補給基地として栄えているらしい。また、ノルウェーの四大フィヨルドの一つ、リセ・フィヨルド観光の基地でもある。今回のツアーの最初の目的はこのフィヨルドを見下ろすハイキングである。
港の近くのホテルに着いて、早速町に出てみる。この日は年に一度のフェスティバルとのことで港は大変な賑わいである。岸壁には露店が並び、身動き出来ないほどの人出である。町の住民全てが出てきている感じである。テント小屋の一つに飛び込んで、紙の皿に乗った海鮮グリル(小さなロブスターの片身、ホタテ、エビなど)と白ワイン2グラスを注文する。200クローネ。田舎の空港で高めのレートで換金したものだから、日本円に換算すると4000円近い。あまりの高額にギョッとする。なにせ、消費税25%の国である。冷静に考えればやむを得ないのかもしれない。それなりに満足して、オールドタウンの方に向かう。ここは港に隣接した、小さな一区画で、多分漁師の住宅街なのだろうが、折からのフェスティバルでひっそりとしている。家々は全て木造で小さく、白いペンキで塗られ、まるでおとぎの国に迷い込んだ様である。でっぷりとして背の高いノルウェー人ならば、かがみ込まなければ生活できないような家々である。しかし、窓は花で飾られ、室内の仄かな蝋燭の火が路地に漏れ出ている。何百年と続いている平和なたたずまいである。
翌朝、今日はリセ・フィヨルドの岸壁の上に出てフィヨルドを見下ろすのだ。幸いに快晴である。港からフェリーで対岸の渡り、更に路線バスに乗って登山口のプレーケストーレン小屋に到着。ここはフィヨルドの裏側に当たり、岩山を越えてフィヨルドの上に出る。ここから岸壁までは標高差400メートル程、約2時間の行程である。人気のハイキングコースとあって、バスは満員であり、また車で来ている客も多い。我々一行も現地ハイカーに混じって登り出す。
暑い!! ここは北緯59度、極東でいうならカムチャツカ半島の根本あたりである。北国とあって、防寒具の心配ばかりしてきたが、こちらのハイカーは短パンに上半身はだかである。それにリュックを背負っている。女性も上はビキニのブラを着けたのみである。ほとんどの中年女性はでっぷりとしており、胸の方もユサユサと感嘆するばかりである。ブラが細いものであるから、小玉のスイカを二つ胸に縄で縛って歩いている感じである。例外も当然あり、お年寄りの女性が皺だらけのものを乳首が隠れるだけのブラで支えて平気で歩いている。とにかく、みんな短い夏の日光を精一杯身体に吸収しようとしているのがいじらしいほどである。男女とも、さすがバイキングの子孫だと感心するばかりである。
湿地帯や氷河が磨き込んだ花崗岩帯の路を登ってゆくと、広い尾根の上に出る。所々に池や小さな湖を擁した花崗岩の高原が遙か彼方まで続いている。アメリカのヨセミテに似た風景である。やはりどちらも氷河が作った地形だと感心する。
暫く高原を歩いてゆくと、やがて岩の間から紺碧の水を湛えたリセ・フィヨルドが見えてきた。リセ・フィヨルドは奥行き40km程で有名なソグネ・フィヨルドに比べると大分小さいが、両岸を1000メートルの岸壁に囲まれた大変美しいフィヨルドである。しかし大分暖かいのか見渡しても雪は見えない。
路はやがてフィヨルドの上に出て、岸壁に刻まれた路を暫く行くと本日の目的地、プレーケストーレンに出る。これは牧師の説教壇という意味のようで、一辺数十メートルの四角い岩盤がオーバーハング状にフィヨルドに突き出ているおり、海面までの高さは約600メートルである。突き出ている岩盤の根元に大きなクラックが入っているのが気になる。いつか崩れるんじゃないかな? 百人ぐらいのハイカーが岩の上でくつろいでいる。我々もここで昼食。
さて、いよい勇を奮って下を覗くことにする。ロッククライマーなら平気で立って下を覗き込めるのだろうが、高いところが苦手な小生は崖の縁まで立って行く勇気はない。縁から数メートルのところで腹這いとなって匍伏前進する。ちょっと下り勾配になっている。理屈では滑ることはあり得ないと判っているが気持ち悪い。やっと崖の縁から頭を出す。ヒェー、高い。ホンマのキンチヂミや。遙か下方に紺碧の鏡のような海面が見える。大きいはずの観光船が点のように見え、それが作る波紋が美しく広がってゆく。写真を撮るためのはもう少し前に出て肩を乗り出さなければならない。ここでも勇気がいる。今日は見えないが、この崖に腰掛ける奴がいるとのこと。目的を達して、後ずさり。
こんなところが日本にあったならば、きっと飛び降り自殺の名所となり、崖の縁には厳重に柵が設けられ、「危険だから近づくな」などと書いた立て札が何本も立っているはずであるが、ここにはそういうものは一切ない。現地ガイドに聞いてもここから落ちた人間はいないようである。
このフィヨルドの岸壁を上を一周する登山コースがあり、一週間ほどで歩けるそうである。また、途中にここよりスリリングな場所があるとのことである。それは高さ1000メートルの崖の裂け目に直径1−2メートルの丸い石が挟まっており、その上に立つことが出来るようである。下山してポスターでその岩の上に人間が立っているのを見たが、小生にはザイルで縛り付けられていても出来そうにはないキンチヂミである。
このツアーの後半はオスロ北方にあるヨーホーテン国立公園に移動して、ペール・ギュントがトナカイに乗って駆け抜けたというベッセゲン尾根縦走ハイキング、スカンジナビア半島最高峰ガルホピッケン登頂を行ったが、ここも大変美しく印象深い山行であった。ここでは体力最低の我が女房が一行の足を大いに引っ張ったのであった。
補陀落浄土
古来より、熊野の南の海の彼方に観音菩薩の住む補陀落浄土があると信じられてきた。そして、数多くの人が観音様のもとへと目指して南の海の彼方へ小舟を漕ぎ出し、二度と帰っては来なかった。
1997年10月、いつもの相棒Oと大峰奥駆を行った。前鬼から玉置山までの南奥駆である。此の道は修行の道として古来より多くの山岳仏教の修験者が通った道であり、西行法師も三度通ったの伝えられている。南奥駆道は修験道の衰退と共に戦後廃道と化していたが、近年地元の人々の力で立派な道に蘇り、途中の宿泊施設も完備して歩きやすい道となっている。
さて、我々は前鬼宿坊、平治の宿と泊まりを重ねて快い秋空のもとキノコなども採りながら元気に縦走した。三日目、平治の宿を出発して11時前頃だったろうか、行仙岳を過ぎて笠捨山に向かうあたりでのことである。ふと、行く手の彼方を見て思わず息を呑んで立ち尽くした。
山の彼方、熊野の海とおぼしきあたりに金色の雲が湧き上がっている。彼方の連山の間から、金粉が沸き立っているようである。理性では、当然これは日光が海に反射しているだけのことと解っているのだが、じっさいに見たところでは単なる光の反射とは思われず、金粉が沸き立っているとしか言いようがない景色であった。思わず手を合わせたくなるような神々しさである。
科学という合理思想に染まってしまった私にはここまでの感想でしかなかったが、仏の教えを深く信仰していた昔の行者達であったなら、あの金色の雲の中に観音菩薩のお姿を見たのではなかろうか。
金縛り −残雪期、美越国境山行−
愚息が時々金縛りに遭うという。夜中に目を覚ますと、意識はあるのに体が麻痺したように自由が利かないらしい。暗闇でこれが起きると相当な恐怖感があるらしい。それで、愚息は就寝するときでも明々と照明を点けて寝る。もったいないから、口うるさく電灯を消すように言ってもけっして消そうとはしない。「何をアホなことを言うとるんじゃ。単に寝惚けとるだけやないか」と思うが、まあたいした事もないので、放っておいている。しかし、あんなに明るいところでよく寝られるものだと、少々あきれてもいる。
ところが、先日小生もこの金縛りなるものを初めて体験した。
三月上旬、岐阜・福井県境の山を縦走した。ここは1000〜1200メートルぐらいのなだらかな山並みで、雪がないとブッシュで大変なところだが、残雪期には静かな山歩きが楽しめる。30年前にも一度縦走したことがあるが、そのときは大分雪が解けていて難儀した記憶がある。あの時は、まだ十分な装備も持っていなかったし、また雪山の知識もなかったので、四本爪のアイゼンだけを持っていったのだが、まだ入り口の林道で膝までズボズボ入る雪にびっくりしてしまった。そこで、傍らにあった炭焼き小屋にもぐりこみ、杉の枝を切って焚き火で矯めて手製のワカンを急造した。それで2泊3日を歩きとおしたのだから、当時は小生も元気だった。この記念のワカンは今も屋根裏にぶら下がっている。今回は、2本のステッキとスノーシューと万全の装備である。
朝、大阪を出発して、琵琶湖東岸の木之本から、横山岳登山口についたのはもう11時を過ぎていた。ここから横山岳に登り、東に尾根を縦走して、滋賀、岐阜県境に至り、そこから北へ走ろうというのである。急斜面と快晴の日差しでのくされ雪に散々苦労して、4時、やっと横山岳頂上に着いた。頂上のバラックの屋根がちょうど腰掛けられる高さになっているので、2メートル程度の積雪である。足跡は先ほど登りの途中ですれ違った登山者のものひとつである。東横山岳でワカンの足跡も消えて、真っ白な雪の上を気持ちよくパカパカと歩く。県境までの途中の尾根上でテントを張る。横山岳の稜線に沈む夕陽が美しい。
二日目、県境に出て北上する。昨夜の寒さで雪が締まっていて快適に歩ける。冬枯れの樹林帯を一人黙々と進む。2時、三国岳頂上。滋賀、岐阜、福井三県にまたがるここは風が吹き渡る平原状の山頂である。ここでまた踏み跡と出会う。夜叉ヶ池の方へと続いている。今日は日曜日なので登山者があったらしい。踏み跡を辿って、夜叉ヶ池の急斜面を滑り降りる。30年前、雪崩の跡を恐々と下ったのを思い出す。4時、夜叉ヶ池畔の雪の上にテントを張る。池はすっかり雪の下である。泉鏡花の「夜叉ヶ池」で知られたこの池は、直径100メートルに足らない小池であるが、折から降り出した雨、コルを吹きぬける風の中の夕暮れは陰陰とした気配に満ちていて、思わず背筋にぶるっと寒気が走る。早々にテントに潜り込む。
夜中、風雨がますます激しくなる。明日の行程が心配になる。ここから三周岳への急斜面をこの雨で腐った雪の中で登れるかしら、ここから下るとしても雪崩が心配だしと思い悩む。
再び真夜中。突然、外の足音に目が覚める。「熊だ! 襲われる。」 声をあげようとするが、声が出ない。小さい声で、アーウーと言うばかりである。シュラフの紐を弛めて、這い出そうと思うが、手がまったく動かない。「懐中電灯は? ナイフは?」と思うが、ピクとも体が動かない。「ウワー、熊にやられる。」・・・・・・ ふと、首にぶら下げたランプに指が触れる。スイッチを押す。テントがパッと明るくなる。スッと体が動き出す。
「今のは何だったんだ? ああ、これが金縛りか。」 愚息の暗闇の中の恐怖がやっと理解できた。しかし、やはり寝惚けていたとしか言い様がないのも事実である。テントの外でものおとがしたら、それも今では実際に聞いたものかどうか自信はないが、ウサギかシカと思うのが普通である。それを熊だと直感した。襲われると思うのも異常である。何故、ここで金縛りを初体験したのだろう? 寝る前の屈託か、暗闇か、はたまた夜叉ヶ池の魔性の仕業か? まさに泉鏡花の世界である。
外は、何時の間にか雨は止んで、急に気温が低下しているようである。これで雪は締まる。安心して再び眠りに就く。
第三日目。三周岳への急斜面の登りに緊張する。ここで足を滑らせると谷底まで一直線である。幸い昨夜の冷え込みで雪がよく締まっている。雨が木に凍り付いて樹氷が美しい。三周岳頂上に立つ。山は低いながら、深山の雰囲気が漂っている。今回の山はこれでお終い。後は少し稜線を北上して、北へ流れている尾根を大野ダムへ降りるのみである。
来年は、ここからさらに稜線を辿って、美濃俣丸、笹ヶ峰、金草岳、冠岳、能郷白山まで縦走したいものだ。
先輩のシャモジ
あの時、「他の者には言うなよ!!」と釘をさされたが、あれからもう30年以上経っており、実際の被害があったわけでもないのでもう時効だろう。
大学を卒業して大学院に入学したのを機に、長年世話になった下宿を引き払ってアパートに入った。大阪・阪急宝塚沿線
入居後、初めて研究室に顔を出して知ったのであるが、なんとこれから世話になることになる研究室のM先輩が同じアパートの二階に巣くっていたのであった。M先輩が豪傑で親分肌ということもあり、またワンダーフォーゲル部のOBで山好きなこともあって、忽ち親しくなって互いに行ったり来たりの付き合いが始まった。
付き合いが始まった頃、彼の部屋に行くと、得意気に今から彼がやっているとても良い洗濯方法を教えてやると言う。当時、独身者が個人で洗濯機を持つような時代でもなく、ましてコインランドリーがあるわけでもないので、狭いアパートの中では下着類は洗面器にでも入れて手で洗わなければならず、面倒臭がり屋の吾輩にとっては鬱陶しい作業であり、洗濯物がいつも山のように溜まっていた。まさに松本零士の世界である。
さて彼の方法というのは、金ダライにシャツ、パンツ、靴下などを放り込んで水を張り、洗剤を入れ、ガスコンロの上に置いてグツグツと煮るのである。そして時々、木のシャモジで捏ね回す。素直で感化されやすい吾輩は、「これは理に適っている」といたく感心し、早速真似をした。しかし、やってみるとどうも彼が自慢するほどには汚れの落ちがいいとは思えない。やはり、揉んだり擦ったりする作業をしないと汚れの落ちがよくない。ある時、洗濯物を火に掛けたまま焼酎を飲んで寝込んでしまい、洗剤、木綿、化繊の焦げた臭いをアパート中に拡げてしまい、二三日、悪臭が取れなかった。これに懲りて、吾輩はこの方法の採用を中止した。
その年の夏、研究室の助手、院生、7名程で大峰縦走をやることになった。洞川から登って、山上ヶ岳、弥山、前鬼と泊まりを続けたが、登山自体は「真夏にやる山行ではないな」と思った程度の記憶しかない。
山行最後の前鬼での泊まりの時である。炊き上がった飯を、M先輩がコッヘルからデコボコのアルミの食器につぎ分けている。何気なくそれをみていて、ハッと気がついた。「Mさん、そのシャモジ!」。例の洗濯物を捏ね回していたシャモジである。M先輩はギョロリとこちらを睨んで、「他の者には言うなよ!」。
その晩は、何とはなく食欲がなかったことを覚えている。
最初に、何の被害もなかったと書いたが今思い起こしてみると、二日目、山上が岳から弥山への縦走の途中、最年長のN先生が気分が悪くなってゲーゲーと吐いた。あれはひょっとするとサルマタケの中毒ではなかったのか。まさか。
「見ぬもの、清し」とは、よく言ったものだ。
お医者さん居ませんかー?
小生、一応医学部を卒業した。大学6年の時、急に臨床医学をやる気がなくなり、基礎医学を専攻することにした。ラット、モルモット相手の実験医学である。結局こちらでもものにはならなかったのではあるが。
しかし、折角卒業したのだから、一応貰っとくかと医師国家試験を受けた。小生が講義を聴いた教授の中には医学部をでたが医師免許は取らなかったというカッコいい先生もいたが。当時はまだ新設医科大学が出来る前で、年間の医学部卒業生は今の半分ぐらいではなかったかな? 従って試験は大変易しく、全く勉強しない奴は別として大抵合格した。医学部の講義は医師としての仕事を行うためには大して役に立たない。いわゆる畳の上の水練というやつである。そんな訳で医師免許証を持っているが、数年前までは花や踊りのお免状ほどにも役に立っていなかった。今はちょっと事情が違ってきているが、これは秘密。
役に立たない医師免許を持っていて迷惑なのは、新幹線や飛行機などの乗り物の中での医師呼び出しである。「急病人が発生しました。お医者さんがお乗り合わせではありませんか?」 出ていっても役に立たないのが判っているから、第一回の呼び出しでは出て行かないことにしているが、もし二度目の呼び出しがあれば出ざるをえまいとそわそわする。幸い二回目の呼び出しがあったことはないので、大体医師が乗り合わせているようである。昨今の医師過剰を反映しているのかも。
さて大分以前になるが、大阪近郊の山へ仲間とハイキングに出かけた。登山口へ向うバスはハイカーでギューギュー詰めである。我々も後ろのほうで立ちづめで、身動き一つ出来ないほどである。一時間近くも走ったであろうか。バスが急停車すると、前のほうで若い女性の黄色い声で、「お医者さんはいませんかー?」 さすがにこのバスの中には小生以外に医者はおれへんやろなーなどと考えながらどうしようかと迷う。すると仲間の中にやけに正義感の強いのがいて、「おまえ、医者やろ。早よ出て行け。」と、背中をドンと突いて、「はーい。ここにいます。」と返事をしてくれる。
これでは否も応もない。「ごめんなさい」と人をかき分けて前に出て行くと、女性ハイカーの一人が青い顔をして座っている。藪医者にも一目で、乗り物酔だと分かる。「どうしたの?」「急に気分が悪くなって。」「バスに乗る前は何ともなかった?」「はい。元気でした。」ついでに「妊娠なんかしてないよね?」と嫌味な質問。「降りて、そこの停留所でしばらく休んでいなさい。乗り物酔いだからすぐによくなるよ。」 人騒がせな。こんだけ混んでいると、ワシでも気分が悪いわ。
これも二十数年前、隣の研究室のK君と泊った南アルプス農鳥小屋。彼もやはり医師免許をもった基礎医学の大学院生で、週に何日か眼科医院でアルバイトをしていた。
隣のグループの一人が、目に異物が入ったらしくヒーヒー言っている。K君、おもむろにザックから取り出したのは、ステンレスの小さな箱に入った眼科の処置用具一式。これでもって、あっという間に異物をとってやった。「おまえ、こんなもん、持ち歩いとるのか」 感心!
K君はこの二年後の秋、西穂から奥穂への単独縦走中転落して帰らぬ人となった。
またまた、二十数年前。仲間5人と南アルプス赤石岳から聖岳へ縦走しようと、小渋川から大聖寺平に上がったところで寒冷前線に吹かれて2日停滞、おまけに仲間の一人が発熱。予定を変更して赤石小屋から下山することになった。
赤石岳頂上より赤石小屋への途中、崖のヘツリに丸木橋を渡しているところがある。そこから2、3人下のほうを覗き込んでいる。尋ねてみると、下のほうから声が聞こえると言う。「オーイ」と呼んでみると、遥か下のほうで「助けてくれー」と
言っている。どうも丸木橋で滑ったらしい。丸木橋の下はずっと急な滑滝になっていて、大分下まで見えるが姿は見えない。ウロウロしていると、今度は5、6人のパーティが下りてきた。ザイルを持った本格的な山屋である。事情を話すと、「ここを下るのは!」と躊躇している。とにかく、彼らにここに残ってもらって、残りは小屋へ通報に走る。
青年の小屋番はすぐに現場に急行する。我々は特にすることもないので夕飯の支度にかかる。
そのうち連絡が入り、ザイルで助け上げたので搬送のための応援に来いとのこと。小屋にいた一同、夕暮れ迫る山道を1時間ほど歩いて現場に到着する。さすがにここでは知らぬ顔も出来ないので、医師としての応援を申し出る。遭難者は意外に元気であるが、ショックでガタガタ震えている。小屋番の指揮でその辺りの木を切り出し、ザイルを組んで急ごしらえの担架を作る。小生は、例の山屋の一人にシュラフを出させる。彼は嫌な顔をしたが、そこは緊急時の医師の権限で否とは言わせない。
そこから暫くのとっぷりと暮れた崖道の担架担ぎの恐かったこと。足を踏み外すと遭難者がもう一人増える。
ようやく小屋に着いて怪我人をチェックすると、大分落ち着いてきている。体のほうはあれだけの高さを滑落したにしては奇跡的に骨折していない。勿論、方々打撲で痛そうであるが。問題は頭の怪我である。前頭部から後頭部にかけて頭皮が前後に20センチ程、パックリと裂けて白い頭蓋骨が大きく剥き出しになっている。小生、当時は普段からラットの首を切って頭蓋骨を出して脳を取り出していたのだが、こんな大きいのは解剖実習以来である。アア、気持ち悪い。出血はもう止まっているが、傷が泥だらけである。洗浄することも出来ず、とりあえず三角巾と包帯で蔽うことにする。こういう実践的なことは医学部では教えてくれない。看護婦のほうがずっと上手である。何とかその場を取り繕う。幸い持参していた抗生物質と抗炎症剤をタップリと服用させる。
小屋番にヘリコプターを呼ぶように言うが、ここにはヘリポートがないので、骨折していないのなら歩いて下りてもらうと言い、怪我人に「頑張って、自力で下りてもらわないとどうしようもないよ」と言い含めている。アー、大変だ。ご苦労様。
翌朝、日程が遅れているので頑張って距離を稼がねばと出発しようとすると、小屋番、何をとぼけたことをしているとばかり、同行してくれねば困ると言う。なるほど、これは一理ある。断る訳にも行かない。仲間には、先行して椹島で待つよう頼む。小屋番と3人とぼとぼ、一歩一歩ユックリと下る。椹島までの長かったこと。ホント、骨折してなくてよかった。
結局、二日遅れで帰宅した。
その後数年間は、こんな事もあるのだと山へ行く時には、必ず準麻薬系の鎮痛薬の注射、抗生物質など数種類の薬をリュックに忍ばせていたが、期限切れで棄ててしまった。まあ人間、パニックに陥った時は痛みなどは忘れてしまうものだと言うことを、自分自身が骨折して、身をもって体験した。
どんな医者でも、徒手空拳ではたいしたことは出来ないだろうし、まして大藪の小生は二度とこういう場面に出くわさないことを祈っている。
命あるものは、必ずその終わりを迎える。例外はない。樹木の寿命は動物より遥かに長いにしても、やはり何時かは命を終える。しかし樹木の場合、枯れてしまって、生命は既に終えてしまっているのだが、なお幹や枝を空に伸ばして命の名残を誇っている時間がある。やがて、その時期も終わりを告げ、朽ち果てて消滅してしまう。
これは、そんな瞬間に偶然立ち合ったときの話。
ずいぶん昔になるが、ある年の夏、尾瀬が原を抜けて奥只見へ出た。清四郎小屋に荷物を抛り込むと、釣竿を手に早速只見川の川辺に立つ。広い川原はヨシやススキで覆われている。風一つない晴天の夏の昼下がり、何度も何度もルアーを飛ばす。全然ヒットしない。
場所を変えながら、岸まで小高い岡の裾が張り出してきている場所に出た。深いよどみとなって清らかな水ははゆっくりと流れて行く。岩魚の潜んでいそうな場所である。ルアーをそっとポイントに落とす。
あれは何の木だったのだろう。場所からするとミズナラかサワグルミだったのだろうか。私の立っているところから少し離れた岸辺の林にひときわ高く抜きんでた枯木が立っている。
しばらくルアーを投げているうち、何か異常を感じてふと枯木に目をやると、全く音もなく、今思い出してみると全く音がしなかったとしか憶えていないのだが、枯れ木が流れの方へ傾きつつあった。突然、停まったように遅くなった時の流れの中を枯木は静かに静かに、ユックリとユックリと傾いていった。そして、大きな水音とともに時間はもとの流れに戻り、枯木は半身を水に沈めて横たわった。
茫然と立ち尽くす私の前で、自然はずっと以前からこのままであったかの如く、また元の静寂の中へ立ち戻った。
あの時のことを回想すると、あの木はあの瞬間に本当の死を迎えたのだという気がしてならない。
山小屋はギュウギュウ詰め
いつもピークをはずして、山行きをしていたせいか、あまり山小屋の混雑に出くわしたことがない。とはいえ、長い山歴のうちには何回か、「これは堪らん」と思ったことがある。
夏の白馬岳。千人だか、二千人だかが泊れる小屋に入ってしまった。こんな大きな小屋に入ったことがないので、勝手が判らずウロウロして、やっとのことで晩飯にありついた。翌朝、トイレへ行って驚いた。行列が出来ている。20分ぐらい待ったんじゃなかったかな? 急ぎの人はどうするのだろうなんて考えながら、一日に溜まる量に思いを致した。それと、壁に書いてあった落書きに感心した。「Ich humbatte
das Untch」ドイツ語、上手だね!
大分昔の夏、朝日連峰竜門小屋。山仲間と三人で、初日鳥原小屋で一泊し、小朝日、大朝日岳を越えてここに着いた。今はどうか知らぬが、当時、しっかりした建物だったが、20人ほども入ると一杯になる小さな小屋だった。無論、無人である。小屋の周りにはテントが数張、当時のことであるからドーム型ではなくみんな家型であった。小屋の中にも数パーティ入っており、ほぼ満員の状態だった。
夜になって、激しい風雨となった。後で知ったことだが、この風雨で大鳥池からの下山路に掛かっている木橋が流されたし、下界でも被害があったそうだ。深夜、外のテント組がドヤドヤと小屋に転がり込んできた。みんなびしょ濡れである。今までポールにしがみ付いてテントを支えていたが、とうとう潰れてしまったらしい。「すみませーん。もっと詰めて下さーい。」詰めるたって、もう一杯である。小屋組は渋々半身を起こして、座位となり、場所を空けてやる。
そのうちに、ムンムンと蒸れてくる。大量の濡れ物があるのだから当然である。息苦しい。誰かが窓を開けた。ヒヤッとした新鮮な空気で一息つく。「寒いから、閉めて下さーい。」モーッ。しかし、これは公平に考えて、要求を受け入れざるを得ない。そんな訳で、あとは一睡も出来なかった。
翌朝、混雑で朝飯の用意も出来ない。もう一刻も我慢出来んと、まだ風雨の強い外へ飛び出して、大鳥池へと向った。
これも同じ仲間と行った奥秩父の国師岳大弛小屋。十月下旬か、十一月上旬の連休であった。大阪から、奥秩父に入るのは一寸面倒である。新幹線で東京へ出て、新宿から例の夜行の鈍行で塩山へ。この列車、今もあるのかな? 塩山へは深夜に着き、初発のバスまで一眠りする。車庫の空いているところにシュラフを出して寝るのだが、見ると魚河岸のマグロか戦場の死体置き場か知らぬが、ズラッとシュラフが並んでいる。アー、山は混雑するなー。
満員のバスに揺られて笛吹川へ。晩秋の西沢渓谷。紅葉と清流に沿って国師岳へ。大弛小屋到着。思った通り大混雑だ。日が暮れるにつれて急に気温が下がる。寒い!! 夕食のスパゲッティが出来た途端にもう冷たくなっている。
就寝の時間。小屋の親爺が出て来て、一同に、シュラフを出して頭を交互にして寝るように言う。オナラ出すなよ。次に、片身になって横を向いて詰めさせられる。これでは身動き一つ出来ないし、トイレへでも行こうものなら、後からは入れそうにない。親爺が、「一二三」と数えだす。「この列はもう一人入れる。もっと詰めろ」
夜中に目を覚ますと、不思議なことにチャンと仰向けになって寝ていた。何とかなるもんやなー。誰が割りを食ったんやろ?
ヒヤーッとしたこと 其の二 遠山川易老沢
1980年代の初めだったか、暖冬で雪の少ない年があった。例年ならばゴールデンウィークには手ごろな大峰・大台あたりの沢を目指すのであるが、この年は雪が少ないことを期待して少し高い山の沢を探ろうという気になった。小生、沢歩きはほとんど単独行であるから、ガイドブックや、遡行記録のある沢しか行かない。記録を読んで、ザイルを出す話が出ればその沢は候補外となる。またガイドブックでは、難易度がグレーディングされているが、最も困難なのが5,6級というグレードのうち3級までのグレーディングがなされている沢が候補となる。まあ、このグレーディングも評価する人によって少し違うし、技術的には簡単だが単に長大なために難易度が上がっている沢もあれば、難しくても短いがために評価が低い沢もあり、見極めるにはちょっとしたコツが必要である。
さて、今回選んだ沢は天竜川の支流で、南アルプス南部、光岳を源流とする遠山川易老沢である。ガイドブックでは2級の上か、3級の下ぐらいにランク付けされており、小生にとって手頃な感じの沢である。この沢を詰めて、光岳へ登り、易老岳から易老渡へ下ろうと云うのである。
中央自動車道を飯田で下り、当時、矢筈トンネルはまだ未完成であったので、伊那山脈をクニャクニャと登って赤石トンネルを抜けて遠山郷に入る。ここ遠山郷は霜月の祭りなど伝承民俗行事で有名な所であり、遠山金四郎の本貫の地でもあるらしい。やがて、遠山川に出るとその大きさに驚く。天竜川の支流とはいえ、広い川原の中の流れは暴れ川の様相を示している。
地図を見ると、遠山川の奥へ通じる道は二本ある。一つは北岸の山を登って、下栗・小野などの昔からの集落を伝いながら、山の中腹を縫って行く道である。この道は、しかし、地図では山の中腹で行き止まりになっていて、川へ下りられるかどうか分からない。もう一本川沿いに道が奥に通じている。こちらは確実に易老沢近くまで入れそうだ。当然、川沿いの道をとる。悪路である。覆い被さった潅木を掻き分け、ワゴン車の腹を擦りそうになりながら、よたよたと進む。対向車だ。ドナイショウ?
相手はオフロードドライブを楽しんでいるクルーザー。やっとのことでかわして、もう対向車のないことを祈りながら進む。北又沢出合まで来ると、山の上から道が降りてきている。やっぱり上の道が正解だったのか。北又沢出合から2,3キロ行った所で行き止まり。ここから先は工事中である。
あいにくの小雨である。昼過ぎから易老沢に入る。入って一時間程歩いたところで、対岸のガレから落石。少しヒヤッとして、あわてて抜ける。日陰は雪が残っている。上の方はまだ相当雪が残っていそう。やはり予測が甘かったか。まあ、行けるところまで行こう。水が冷たいので出来るだけ徒渉は避けて、高捲きに徹する。
数時間歩いて、ビバーク。今回は実験的にハンモックで寝ることにしていて、適当な林を捜す。地盤の状態を気にしないでいいのは有り難いが、小雨の中でハンモックに身を横たえてから、上にツェルトを被るのには一苦労する。少し工夫と仕掛けが必要なようである。
翌朝、少し歩いて谷通しがあまりに冷たくて辛いので尾根に逃げる。ここで、つがいの鹿を見掛けた。その尻毛が大変印象的だったことは、「我が動物記」に書いた。尾根へ逃げて暫くのうちは疎林の中の快適な登りで、しめたと思ったが、だんだん雪が深くなってきた。林の中の腐れ雪で一々踏み抜いてしまう。まだ頂上までは数百メートルの標高差が有りそう。早々に諦めて下山することにする。
ヒヤーッとしたのは、下山途中である。2、3メートルの崖をザイルでガレ場に下り、降りたって歩き出そうとしたとき、乗った石が崩れた。倒れて数メートル滑り落ちて、やっと止まった。あと1メートルで先が切れて、崖になっているようである。覗き込んで、背筋が寒くなった。先は切立った崖で2,30メートル下まで遮るものはなく、谷底を白く流れる水がよく見える。あと数メートル滑っていたら間違いなく命を落としていた。ああ、神様有り難う御座いました。
あとはソロソロと沢を下っていっただけで、書く事はない。と言うよりショックであまり景色を憶えていないと言った方が正確である。
さて、里へ出て霜月の祭りで有名な正八幡神社にお礼参りして、千円札をお賽銭に拝殿に投げ入れた。いつもは10円しか入れない小生だが、この時ばかりは少しも惜しいとは思わなかった。
ヒヤーッとしたこと 其の一 双六谷
1998 年夏、北アルプス金木戸川双六谷を単独遡行した。神通川の源流の一つにあたる双六谷については「キンチヂミの謎」で少し書いたが、この時は3度目の入渓である。
最初の入渓は、1971年夏であった。山の相棒Oと二人での山行きである。イタイイタイ病で有名な富山県神岡から林道の最奥までタクシーで乗り付ける。ここから少し右岸の踏み跡を辿り、谷に入る。水量が多い。今まで大峰、大台などの沢歩きしかしてなかった我々にとっては、まるで大河のようである。ザイルを出して確保しながら腰上まで水に浸かっての徒渉を繰り返し、初日は打込谷出合でツェルトを張った。
翌朝、歩き出してすぐに遭難した。この時はヒヤーッとする間もなかった。実はどうしてあんなことになったのか分からないのだが、気がつくと腰の下まで水に浸かって、右手の人差し指を大きな石に挟まれて身動きが出来ない状態だった。後ろを歩いていた相棒の話によるといわゆる石車に乗ったらしい。グラッときて思わず手をついた石がまた崩れて指を挟まれたのだろう。パニック状態になっているせいか痛みはあまり感じないが、右手を引っ張ってもびくともしない。上から押さえているいる大石は長さ1メートル以上、太さが50センチぐらいの棒状である。相棒が持ち上げようとしたが、全然ダメ。
相棒、すぐに林の中へ入って太い枯れ木を引き摺り出してきて、梃子にして持ち上げるが、木が腐っていたのかボキッ。全く動かない。
次の木を探しに行く前に、相棒かたわらにある二階建ての家ほどもある大岩を見上げて「大丈夫かなー?」 見上げると実に不安定な感じである。ちょっと押すと、こちらに倒れてきそうである。「オイオイ、こちらは身動きできへんのやで。そんな心細いこと言わんといて」
二本目の木でやっと少し大石が持ち上がり、すっと指が抜けた。見ると、人差し指の腹側が3センチほど裂けて白い腱が見えている。嬉しいことに骨に異常はないようだ。どうやら上下の石の間に僅かの隙間があって、そこに挟まれていたらしい。右足にも、相当な打撲をおっていた。
荷物を全部棄てての退却となった。
あまり考えたくもないが、もしあの時、石が持ち上がらなかったらどうなっていただろう。冷水に腰まで浸かっているので半日は持たないだろうから、救援は間に合いそうもないし、鉈で手首を……。
二度目の入渓は「キンチヂミの謎」に書いた。
3度目の今回も、前回同様沢の中で一泊、次の日のことである。例のキンチヂミの少し下に来たとき、谷の前方から冷気とともに霧が漂ってきた。前回経験しなかった陰鬱な雰囲気である。それでヒヤーッとしたのかって? 本当にヒヤーッとしたのはこれからの話。
さらに進んで行くと、突然前方に巨大な雪の山が立ちふさがった。8月と云うのに、高さは20メートルを越えていようか、奥行きは100メートルぐらいはあったのでは? 雪崩の跡である。太いモミの木が無残に引き裂かれて、何本も雪に突き刺さっている。雪の下はトンネルになって渓流が轟々と流れ出ている。
上を越えようか、下をり抜けようか、あるいは引き返そうか? しばらく思案する。雪渓の下を潜っていて崩れて生き埋めになった話を聞いたことがあるし、上を歩くのも雪渓を踏み抜きそうだし、ホント、引き返したくなった。
イヤ、マテマテ。いちばん氷が厚そうな稜線を上潜って頂上に出て、山腹と雪渓にブリッジを掛けている二抱え程ある太いモミの倒木を伝って山腹に出れば簡単に抜けられるぞ。ホレホレ、難なく倒木のところに到着する。途中に雪から突き出た、根こそぎ引き抜かれた木の根に残った僅かな土にツツジが今年限りの命の花を可憐に開かせている。さて、45度ほどの角度で一方を山腹に付け、他方を雪の中に突っ込んだその木の枝の部分に足を乗せて、取り付いたときである。その太い木がズルズルと滑り出した。ヤバイ。あわてて飛びのく。大木はスピードを増しながらはるか下の流れの中に落ちていった。ヒヤーッ。
次の日は、黒部五郎小屋へ突き上げている九郎衛門谷の入口にある滝の草付きで危うく立ち往生するところだった。足場の悪い草付きから下を見て、ヒヤーッ。
岩登りも、冬山もやらない小生にとって、沢は最も危険な山行である。思い返してみると何度かあるヒヤーッとしたことはすべて沢の中である。普通の登山でヒヤーッとした記憶はほとんどない。こういうヒヤーッとしたことを5回ほども経験していると、そのうち一度はきっと命に関わるような大怪我になるんだナ。小生、もう一昨年の滝からの滑落・骨折で、沢歩きからは足を洗った……つもりである。くわばら、くわばら。
明神平雪中泊(2001.02.18)
1998年夏の骨折以来、本格的な山歩きは出来なくなっていたが、今年ぐらいからソロソロ動き出そうかと考えた。それで、いつもの山の相棒に「雪の上で一晩、寝ーえへんか」と声を掛けると、雪の中を歩くのはいいが寝るのは寒いからいやだとおっしゃる。それで先々週、二人で和佐又山へ出かけた。車で和佐又小屋の前まで乗り付け、自宅から用意してきた鴨鍋で一杯やりながらの与太話。翌日はうす曇りながら数十センチの積雪のなか、笙の窟までのぶらぶら歩き。引き返す途中に寄った和佐又山頂上からの景色も素晴らしかった。この山行きもそれはそれで充分楽しかったが、どうももう一つ物足らない。
それで、先週の建国記念日の三連休、最初の土曜日は買い物の運転手など、せっせと家庭サービスをやって、あまりいい顔ではなかったが何とか女房殿から日、月曜日の明神平行きの許可を貰った。土曜日夜、パッキングをやり、用意万端整えた。息子がスキーに行くから車を貸せと言ってきたのにも、大又から歩けばいいのだからと気前好くOKを出す。
翌朝、6時起床。快晴である。着替えをすませ、荷物をもって玄関に立つ。この時になって、急に自信がなくなった。「先週、2時間ほど歩いただけで足が痛かった。今日は大又からやと3時間以上かかるやろ、それも荷物かついでや。」「行こか、止めよか」としばらく逡巡したが、だんだん気力が萎えてきた。「ヤメター」。女房に話すとニコニコして、「エエ選択やないの、そろそろ年も考えなさい」と言う。それを聞いてますます元気がなくなる。そんな訳で、三連休後半は、家でテレビを見ながらゴロゴロと無為に過ごすこととなった。
話は変わるが、インターネット掲示板の中に「大峰山系と大台山系を語ろう」というサイトがあって、一年足らず前から始まったのにもう2500近いメッセージが寄せられるという、ローカルな話題にしては、人気サイトの一つとなっている。小生も、昨年末にこのサイトの存在を発見して以来投稿を始め、今ではこのサイトの常連になっている。さて掲示板を覗いてみると、明神平は好天と霧氷で素晴らしかったらしい。大フィーバーである。興奮したメッセージが飛び交っている。ウーン、悔しい。一人取り残された気がする。
この侭では負け犬になる。次の週末には、車で林道をつめてトライしよう。天気予報ではマアマアの天気らしい。
待望の土曜日。快晴である。今日は明神平泊りの予定だから急ぐことはない。昼頃から登ればいいだろうと、自宅を9:30に出発する。10分ほど走ったところで、「シマッタ、登山靴忘れてる。よう気が付いた」と引き返す。12時すぎ、大又奥林道終点に到着。駐車場には15,6台の停まっている。大又から奥は路面雪であったが、我がスバル・ランカスターは四駆の威力を発揮して難なくクリアーする。
1時まえ出発。少し行った所でアイゼンを付ける。ほとんど足に違和感がないので安心する。ちょうど、4年ぶりであるが、林道は大分奥まで伸び、アシビ山荘の手前まで来ている。
1時半、アシビ山荘着。以前は陰鬱な場所であったが、後ろの杉林が伐採されて、カラッと明るい雰囲気となっている。ここから上は山道となるが、道はよく踏まれており、何ということはない。小さい氷瀑が美しい。ぼつぼつと下りの人とすれ違う。登るに連れ、雪が多くなる。
3時過ぎ、明神平到着。予想通りの銀世界である。空は、薄く雲が流れているが、まず快晴の部類である。風はほとんど無い。木々は霧氷に覆われている。広い平に人影は10人もない。アレッ、新しい小屋が出来ている。近づいてみると、天王寺高校「アシビ山荘」とある。真っさらなログハウスである。
三塚へ向おうと歩き出した時、すたすたと下り出した年配の夫婦連れとすれ違った。ベテランらしい歩きぶりである。これがやはりインターネットで常連のyusiiさんであると分ったのは、家に帰ってからのこと。
三塚中腹から振り返ると、数日前に雪が降ったようで、足跡は今日付いたものばかりで、広い雪原に数条見えるだけである。反対側の水無山へ数名のパーティーが登って行く。高見山への縦走か? トレースを伝って、難なく三塚へ到る。今日の泊りは明神岳直下の祠跡にしようと、明神岳へ向う。明神岳から大台方面への稜線が斜陽をうけて見事である。カメラにおさめようとするが、見晴らしのいいところが無い。今日の泊りの場所は森の中で、やはり見晴らしは利かない。この夕方の景色を楽しむには適当でないと気が変わって、引き返し三塚直下の平地に、雪を踏み固めてテントを張る。4時半。
暗くなるまで、ここから写真を撮る。今回の目的の一つは雪景色をカメラに収めることであり、そのため一眼レフ、望遠および広角レンズそれとペラペラながら三脚と、今までやったことのないほどの重装備である。三年前、タイのサムイ島で見た夕焼けのように真っ赤になることを期待したが、さすがにそれは無理。空にたなびく薄曇がやや茜色に染まる程度であったが、それでも純白の雪を茜色に染めて、樹間に沈む夕陽は実に印象的であった。
さて、テントの中にくつろいで、夕食の用意ということになって、武器(ナイフ、フォーク、箸)が入っていないことに気が付く。夏ならば、ちょっと外に出て小枝でも切り取って、即席に箸を作るところであるが、この雪の中もう一度靴を履いてスパッツを付け直して外に出る気にはなれない。まあ、テントのペグでも箸がわりに使うかと、準備にかかる。ここで、今度はヘッドランプが電池切れ。たしか予備の電池を入れておいた筈とリュックの中を掻き回すが、手探りでは見つからない。3年のブランクですっかり鈍くなっている。まあ、たいして空腹でもないので辛抱するかと食料箱の中を捜すと仙台のゆべしが一個出てきた。これを食べて、寝る。
シュラフは3シーズンのダウンと夏用の重ねである。4年前はこれで快適に寝られたのに、今夜は寒い。背中がジンジン冷える。エアマットの空気が抜けている。シマッタ、安物を持ってきたのだが、穴があいたみたいだ。
ウトウトする。もう、12時過ぎたかな? アレッ、飛行機の音がする。なんだ、まだ9時前だ。輾転反側。来し方、行く末その他、つまらないないことまで色々思い浮かぶ。テントに直接は当らないが、上の方は大分風が烈しいようだ。木々が泣いている。アア、やっと4時を過ぎた。後2時間ほどの辛抱だ。猛烈に眠くなる。
突然、目が覚める。外が騒がしい。テントを開けると、どこかの駅の改札口の前。人が行き交っている。見上げると、今日は3月1日との表示がある。ワー、2週間も経ってる。傍の女性に、「ここはどこ?」と訊ねると、女性は気の毒そうな顔で、「明神平で行方不明になった方ですね」。ポケットを探ると、関東や九州の旅館で泊ったことが判る品々。何にも憶えていない。「ヒェー、完全な記憶喪失や。どないしよう。」 今度は本当に目が覚める。シュラフから頭を出すと、テントの中はすっかり明るい。
今日も晴れだ。シュラフから半身乗り出して、食事の用意。タップリの朝食。
二人連れが「おはよう」と声を掛けて、明神岳の方へ向う。こちらも冬眠から覚めた熊のように活動を開始する。外に出てみると、温かい。昨夜の風で霧氷はすっかり落ちて、木々は黒々と白い雪をバックに立っている。やはり、少し足が痛む。
カメラだけを持って、先程の2人組のトレースを辿り明神岳に向う。トレースはずっと桧塚の方へ続いているが、足の痛みもあり、明神の祠跡でストップする。4年前にテントを張ったところである。明神岳頂上に登ってみたいが、足が痛くラッセルもおっくうである。来年はスノーシューを買おう。
テントに帰って、撤収。明神平へ下ると、数張りのテントが見える。天高の小屋からも人が出てきている。もう下からも登ってきている人がいる。同年輩の一人と話する。下から登ってきたが、霧氷がないのにガッカリしたとのこと。登ってきたばかりなのに、早々に下山するとのことである。
足をかばいながら、ゆっくりと下山する。ステッキが便利である。今日は、登山客が多い。それもほとんどが中高年の男女である。みんな装備は立派、中には10本爪のアイゼンにピッケルを持って、氷壁でも登れそうである。100人近い人とすれ違ったか。昼前に駐車場に帰ってきて、今回の山行きは終了となった。駐車場には臨時バスが停まっている。登山客が多いはずだ。
まだ、足の方は本復とは云えないけれど、これから軽い登山は出来ると自信が付いた。
生まれて初めて作った漢詩です。韻を踏んだり、平仄を合わせたりとクロスワードパズルをやるより大変なものでした。
独登和州明神岳、宿雪中
独陟明神岳 独り陟(のぼ)る 明神岳
行行日欲斜 行き行きて 日斜めならんと欲す
俄看天上耀 俄に看る 天上の耀くを
樹樹発氷華 樹樹(じゅじゅ) 氷華を発(ひら)く
疎林唯万籟 疎林 唯(ただ) 万籟
高阜凡銀氷 高阜 凡(すべ)て 銀氷
日暮廬何処 日暮れて 何れの処にか廬(いおり)せん
須臾佇雪稜 須臾(しばらく) 雪稜に佇(たたず)む
漸是黄昏近 漸く是 黄昏近づき
風休気凛然 風休(や)みて 気凛然たり
朱陽沈凍樹 朱陽 凍樹に沈み
太白泛山顛 太白 山顛に泛ぶ
憂心難作酔 憂心 酔を作(な)し難く
冷峭未能眠 冷峭 未だ眠る能わず
払暁迷幽夢 払暁 幽夢に迷い
醒来日高天 醒め来れば 日天に高し
「キンチヂミ」の謎
神通川支流金木戸川はその源を北アルプス双六岳に発し、源流地帯は双六谷と呼ばれる。万緑の中をコバルト色の渓流が白い花崗岩を削りながら下っていく様は実に美しく、北アルプス屈指の渓谷美を誇っている。この渓谷の核心部に、「キンチヂミ」というコワーイ名前の場所がある。
30年近く前、初めて入渓した時は入り口付近で大怪我をして、荷物を全部捨てて命からがら退却した。結婚二年目の夏で、ハラボテの嫁さんを危うく未亡人にするところであった。以来、渓流歩きは恐いものと慎んでいたが、20年も経つと、喉元過ぎれば熱さを忘れるというか、このまま引っ込んでは負け犬になるような気がしたというか、とにかく無性に渓に入りたくなった。そこで再挑戦という事になった。
小生、まあ、高所恐怖症というほどではないにしても、高いところは得手ではない。溪を溯っていると、滝や岸壁に阻まれ、谷沿いには進むことが出来ず、山腹を這い上がって高捲きせざるを得ないことがままある。山腹を這うように進みながら、松の木などに捉まって下を覗き込むと、絶壁の遥か下に激流が望める。ここを転落すると100%助からない。こんな時、股の間で睾丸を引き上げる筋肉、精巣挙筋、がシュルシュルと収縮するのが感じられる。大事なものをキッと引き挙げて健気にも危険から守ろうという生体防御機能が働いていることに感心しながらも、自分にはもう役目を終えた器官なのにとか、アレッ、こんな時女性はどんな感じなのかな?とか、 若殿の初陣に、家来が袴の中に手を突っ込んで握ってみると、ダランと弛緩していたので、末は大将と感心したという話は嘘臭い…などと気をそらせ、気分と精巣挙筋をリラックスさせて、またそろそろと進み始める。
さて、肝心の「キンチヂミ」であるが、もうそろそろだと、全身に緊張感を漲らせてドキドキしながら進んで行くと、それらしい場所に出た。「アレッ、こんなところ? たいしたことないじゃないか。」 両側は岩壁、前は淵になっていて一見恐そうだが、壁をつたい、腰まで水に浸かって慎重に水中の足がかりを探ってゆけばなんということ無く通り抜けられた。たとえ足を滑らせても、淵へドボンと入るだけのことであり、リュックが浮き袋となるので危険は全く無い。ひょっとすると、まだ先にあるのかな?…と思って、進むが一向にそれらしいものはない。やっぱり、さっきのところだ。しかし、もっと恐いところはこれまでにいくつもあった。釈然とせぬまま、通り抜けたのであった。
渓の中で二泊して、おかずになる程度に岩魚も釣り、沢歩きも十分満喫して、何か長年の宿題を片づけたような気がしながら、稜線の双六小屋にたどり着いた。とたんに、耳に入ったニュースは、ソビエトのクーデター、ゴルバチョフの失脚であった。
そののち、古い登山記録を読んでいると、同じ疑問を持っている人がいた。彼の意見では、 あれは単に、腰まで水に浸かるので冷たくて縮むというだけの意味ではないかと。まさかー!!!
嫌味な親爺
山小屋の親爺さんは概して好人物が多い。親爺さんの人柄に惚れ込んで、山小屋に通いつめたりもする。小生、浮気な質で(但し、女性に関しては別)、あまり一つの山に通いつめることはなかったし、野営が原則だったのでそういった経験は少ないが、それでも大台教会の田垣内さん、前鬼小仲坊の五郎さんをはじめ何人かの心に深く残っている小屋主さんがいる。
しかし、何事にも例外はあるもので、悪人とは云わないが嫌味な親爺はいるもので、「二度とこんな小屋に泊るか」と腹を立てて出発することもある。今はもう無いらしいが、南アルプス山麓の某小屋の主人も何か裏表があるようであまり気分がよくなかった。
小生の経験した最悪に嫌味な山小屋の親爺は、北の方の山にいた。もう20年以上前のことで、その時相当の年だったから、たとえ生きていても現役の管理人ということはなかろう。
峠でバスを降りたのは、真夏の昼前であった。快晴である。山仲間4人でこれから尾根伝いに山頂を目指す。山頂まで5、6キロの道のりだ。北の山とは云え、この山域は猛烈に暑いことで有名である。歩き出して暫く行くと、汗が滲み出してくる。暑い!! 道端の木陰にひっくり返っている登山者がいる。相棒がパタパタと煽いでやっている。熱射病か。以前、やはりこの山域の山で下山の途中、危うく熱射病になりかかったことがある。下りてから飲むビールをより旨く感じようと水制限をやったのだ。ほとんど山を下りた時、突然汗が出なくなり頭がガーンとした。これはヤバイと、横の谷川に飛び込んで体を冷やし、慌てて水を飲んだ。夏山で水制限などは愚の骨頂であることを身をもって体験した。
頂上直下の山小屋までもう一登りという所まで来た。小屋が見えている。小湿原があって、ちょうどいい休憩場所である。荷物を下ろして、汗を拭く。ヤレヤレ、あと一登りと思うとノンビリする。湿原に近づいて、水に手を浸けてみる。その時、上の方から何やら音がする。見上げてみると、ハンドマイクでガナッている男がこちらの方に手を振っている。休んでいた登山者が「そちらへ入っては行けないと言ってるようですよ」と教えてくれた。アッ、ソウ。別に立ち入り禁止とも書いていないのにと思いながら湿原を離れる。
小屋に着くと、先程の男が現れて、湿原に立ち入ったことに対して叱責する。小屋の親爺である。小屋は公営のようで、4、50人は入れそうな立派なものであり、先程の親爺が管理人のようである。中に入ると、4人だから、ここからここまでと、我々の使えるスペースがキッチリ指定される。見渡すと小屋の中は4グループほどでガラガラである。荷物の整理のために隣のスペースに品物を並べると、早速親爺が飛んできて文句である。「参ったなー。うるさい親爺やなー」
その内、親爺の知り合いらしいのが4,5人スキーを担いで入ってきた。すると、我々や他の客には笑顔一つ見せなかった親爺が豹変して、ニコニコと自分の個室へと招き入れた。この裏表のある態度に、イヤーな気分になってきた。
小屋の外に出ると、白い百葉箱がある。表に「開扉厳禁」とある。別に百葉箱など覗きたくもなかったが、少々むかっ腹が立っていたので、「開けて見たれ」とソット扉を開ける。トタンに親爺が飛び出してくる。どうも警報装置が付いているようだ。そんなに開けられて困るものなら、鍵を付ければいいようなものを。誰も鍵を壊してまでは覗かないだろうに。いたぶられているような気がする。どうも罠を仕掛け、違反者を捕まえて叱り付けるのが趣味の親爺のようである。この山での行動はすべて自分の管理下に置かねば気が済まないようで、何かここが自分の山のように錯覚しているらしい。
小屋の上手に雪渓がある。厳重にロープを巡らせていて、立ち入り禁止である。小屋の水源であろうから、これは理解できる。山頂に登って帰ってくると、雪渓の上で先程の親爺の知り合いの一人がスキーをしている。親爺が許可を与えているらしい。そうでなければ誰がここまでスキーを担ぎ上げるか。えこ贔屓が過ぎるではないか。これで又むかっ腹が立った。こちらもロープをまたいで、わざと雪渓の上に立つ。その時、スキーのニイチャンなんて言ったと思う? 「ここは立ち入り禁止ですよ」だって。ソンナコト、ワカットルワイ。「お宅も、入っとるやないですか」 ニイチャン、押し黙ってしまった。
翌朝、気分悪く出立する。少しのゴミではあるが、当然お持ち帰りであるから、ポリ袋に入れてザックに括り付ける。早速親爺、目を付けて「途中で捨てるつもりだろう。ザックの中へ入れてしまえ」と命令。にっこりと笑顔を作って「大丈夫ですよ。ちゃんと持って下りますから」と振り切って出発する。さすがの親爺もそれ以上の権限はない。ざまみろ。
カミサマ。ワタクシタチハツミヲオカシマシタ。ココニザンゲイタシマス。
小屋ガ見エナクナルト、「こん畜生、糞親爺」ト悪イ言葉ヲ吐キナガラ、ゴミヲ投ゲステテシマイマシタ。
山ニ罪ハナイノニ。オユルシクダサイ。
骨折
アー、トウトウヤッテモター。オッチョコチョイヤナー、ワシハ。相棒が、心配そうに覗き込む。「大丈夫か? 立てるか?」足ニ、力ガ入ラヘン。ドウモ、コレハ折レトルワ。ダンダン、足ガ腫レテキヨル。カカトノ骨、何テ言ウタカナー? 解剖学、コロット忘レトル。「あかん。骨折してるみたいや。」
1998年7月20日午前10時。秋田県虎毛山塊虎毛沢。入渓3日目である。何しろ、標高差がたいしてないところに、3日も掛かる長い渓である。昨日までは、水の中をジャブジャブ歩くだけで、危険に緊張を強いられるようなところは一つも無かった。ところが、今日になって源流が近くなると、急に高度を稼ぎだし、いくつも滝がかかって、おまけに水苔でヌルヌルしている。今朝から、三つ、四つ滝を乗り越えて、ここまで来た。正面の滝は、高さ6,7mもあろうか。水量はあまり無く、シャワーとなっており、滝壷はない。岩がゴロゴロしている。滝の右側の崖に踏み跡らしきものが見える。相棒が首をかしげる。「難しそうなとこやなー。」ナニ言ウトルネン。滝ノシャワーヲ浴ビテ、正面カラ登ッタラ、足場ガ見エトルヤナイカ。「正面から、登れるんとちゃう? 行ってみるで。」ホレ、手掛カリ、足掛カリ十分アル。右ヘチョイチョイチョイ、左ヘチョイチョイチョイ。ヨイショ。「着いたでー。ワー!!!!!!」滝の上に立って、下を見下ろしたとたんである。ツルッと、滑った。飛び降りる格好になった。
「お前、もう二度と沢登りするな。」「うん。」
相棒、怒ットル。無理モナイ、二度目ヤモンナー。前ニ沢登リデ大怪我シタトキモ、コイツト一緒ヤッタ。アノ時モ迷惑カケタモンナー。
「要らん物は捨てて、荷物軽くするぞ。」
テント、カメラ、釣具。アッ、ソノリールハABUノClosed-faceヤデ、今、日本デハ売ットラン。アカン、目ガ吊リ上ガットル。言出セル雰囲気ト違ウ。ドウセモウ渓流釣リハ出来ンヤロシ、エエカ。コッヘル。ソレハチタン製ノ新品ヤ。「今晩、ビバークせないかんかもしれんから、炊事道具は残しといたら?」「そうやな。」ホッ。
「どうする? 降るか? 登るか?」「この足で、いままで登ってきた滝はよう降りんわ。どうせ這わんといかんから、登る方が楽やで。それに上の方が近いし。尾根まで出たら、何とか救援が頼めるやろ。」
「気ィ付けてやー、お前が怪我したら、わしはアウトやからな。」
幸い、5mmのザイルを持ってきている。これでザックを吊り上げ、確保してもらって滝を這い上がる。
しばらく行くと、踏み跡が尾根の方へ上がっている。アー、ヤレヤレ、助カッタ。アト標高差二、三百米ヤロ。
エー、コノ草付キ登ルノー? ルート間違ウタントチャウ? 恐イナー。滑ッタラ谷底ヤガナ。「気ィ付けて登ってやー。」ヨシ、相棒ガ木マデ登リ着イタ。「確保、頼むでー。」一歩前進二歩後退ヤガナ。
午後4時、尾根の登山道に出た。ヤッター。あと、頂上の小屋までは1kmとはない。「頂上の小屋で待っていても、ヘリが出てくれる保証はないぞ。麓まで降りて救助を待つ方が確実やで。」エー、マダー? ソヤケド、確カニ、ソノ方ガ確実ヤロナ。「そやな。標高差五、六百米程やろから、普通だったら2時間と掛からんとこやからな。行こか。」
後ろ手について、尻を浮かしては、ヨイショと一つ前進する。手ガ痛トウナッテキタ、タマランナー。「ちょっと、休ませてー。」 丸太ミタイニ、転ガッタ方ガ楽ヤロカ。ゴロゴロ・…。コノ方ガエエナ。広イトコハ、コレデイコ。
午後11時、麓に到着。ここから林道の終点まで約3キロ、谷沿いのなだらかな道である。モウアカン。下リヤッタカラ、ココマデ来レタケド、平ラナトコ、イザッテイク気力ナイワ。
相棒は、これから夜道かけて、10キロ程下って救援を求めに行く。口には出さないが、スマンナー。エライ迷惑カケルナー。
今マデ、緊張シテタカラ、アンマリ痛イト思ワナンダケド、ズキズキ痛ンデキタ。今晩ハ寝ラレソウニナイワ。・・・・・・・・・… 夜ガ長イナアー。アイツモウ着イタヤロカ?
朝。アレッ、ヘリコプターガ飛ンドル。救援ヤロカ? シモタ、頂上ニオッタラ乗レタノニ。ココヘハ降リラレヘン。
午前6時、相棒と救援隊が担架を持って到着。アリガトウゴザイマシタ。まだ乗ったことの無いヘリコプターには乗れへなんだけど、そのかわり、これも初めての担架に乗ることが出来た。しかし、この乗り物は担ぐ人に気の毒で、申し訳なくて、気の休まらん乗りもんでした。
右踵骨骨折(しょうこつ)。ソウソウ、カカトノ骨ハ「カルカネウス」ト言ウンヤッタ。
会社のドイツ人から聞いた話。エベレストに初めて単独無酸素登頂した登山界の超人、ラインホルト・メスナーが別荘として所有しているイタリアの古い城へ出かけたが、着いた時、鍵を忘れているのに気がついた。そこで、クライミングはお手の物であるから、城壁を登って中に入ろうとしたが、転落して踵骨を骨折したとのこと。サルも木から落ちる!
ソロモン群島へ軍医として出征していた父の話。上陸用舟艇で敵前の浜へ乗り上げた時、地雷の爆発で下から突き上げられると、数十人まとまって踵骨骨折を起こすとのこと。
日高幌尻岳
先日、梅田で書店に寄ったとき、北海道の山のガイドブックを覗いてみた。紹介されているコースが昔と大分変わっている。マイカー時代に即応したコース取りになっている。北海道の山は概してアプローチが長い。日高山脈などは、登山口まで50キロも60キロも林道を行かねばならない所がある。山奥に居住している人も少なくなり、バス路線も廃止になったり、たとえ残っているとしても運行回数が減って大層不便になっている。その代わり、自家用車が幅を利かすようになった。その結果としてはどうなる? そう、車を置いた登山口まで帰ってこなければならない。したがって、ほとんどのコースがピストンコースか、あるいはせいぜい回遊コースとなる。
小生、ピストンコースが大嫌いである。登りと下りでは眺める景色が違うといえば、それはそうかもしれぬが、登りと下りではやはり違う道を歩きたい。昔は登山口まで自家用車で乗り付けるなどと云うことは、山へ登る人間では考えられないことであったから、大体が山脈縦走とか、山の反対側に下りるコースが普通であり、ガイドブックにも大抵そういったコースが紹介されていた。
1967年の夏、北海道を、同級生Kと20日程旅をした。例のカニ族と云うやつである。誰が付けたのか知らぬが、幅の広いキスリングをしょって列車の通路を横ばいで進む姿は、言い得て妙であると感心したものだった。この時は、山ばかり目指した。普通の観光地は老後の楽しみにとっておこうと云うのである。利尻岳、知床羅臼岳、日高幌尻岳、大雪山を廻った。それでここでは日高について話をしよう。
帯広の公園で野営した我々は、バスで戸蔦別川へと向かう。戸蔦別川を遡行して幌尻岳頂上に立ち、額平川を下って日高振内駅へ出ようというのである。地図を見ると、幌尻岳を下った所から振内までは30キロ以上の林道歩きであるが、時間制限のない学生の身分でもあり、また若さ一杯の頃でもあり、一日のロードも何とかなるさと気楽に考えていた。
バスを降りると、最奥の開拓村、八千代。ここから、こちら側も林道歩きである。歩き始めたのは、10時頃だったろうか。営林署で登山許可を貰い、ゲートを通り抜ける。2時頃、林道終点に着き、ここでテントを張る。KはワンゲルOBなので、2時になったら必ずその日の行動をお終いにする。小生のように、単独行主体の者は少なくとも5時頃までは歩くので、「エー、もう止めるの? まだ日が高いのに。」と思う。
次の日は、一日沢歩きである。沢歩きといっても、たまたま道が水の中にあるといった感じで、危険な所は全くなく、単調なものであった。例によって、2時頃三股に付きここでキャンプ。まあ、ここから沢が急峻になるので、適当な所か。竿を出すも、一向に釣れず。この頃は釣りの腕も下手だった。沢を下ってきた2人組と一緒になり、彼らの4人用テントにその日は寄宿することになる。山行も終わりとなった彼らの一人がおかずがないので飯が食べられないとこぼすと、もう一方、残りの飯に水をジャブリと掛けた。雑炊にでもするのかと見ていると、「山で贅沢いうな」と、そのまま食べてしまった。さすが、日高の山中ともなると猛者が多い。
今日は戸蔦別岳て突き上げている沢を辿る。危険な所は少なく、岩もフリクションがよく利いて快調に登れる。上の方でコースを間違えたようで、左の枝沢に入り、尾根に出た所はハイマツのブッシュであった。ハイマツといっても2メートルを超す高さで、ぎっしりと密生している。道があれば、越えるのに10分とかからないような小さなピークがなかなか越せない。幅の広いキスリングが太い枝に引っ掛かる。いつの間にか枝に登って、枝から枝へと渡っていた。北海道の山の記録などに出てくる「ハイマツの枝渡り」とはこれかと感心する。それでも上へは進めずに、結局自然にピークを捲く恰好になって反対側にあった踏み跡に辿り着いた。体中擦り傷だらけになって到着した七つ沼カールは素晴らしい所であった。周りを日高の山々に囲まれた天上の楽園である。お花畑は少しも荒らされていない。戸蔦別岳までの散歩。夕暮れになると、ナキウサギが岩の上に現れて「キチー、キチー」と鳴声を立てる。
翌朝、ついに幌尻岳の頂上に立つ。快晴である。眼下の北カールが凄い。いくつもカール地形を持った日高の連峰が望める。遠くには、十勝岳らしい峰が遠望できる。「向こうの尾根ぐらいにヒグマが見えないかなー」なんて、欲の深い望みまで出てくる。因みに、福岡大学の学生が日高でヒグマに食われたのはたしか2年後だったか。
この後は、幌尻山荘までの「ヒイ、ヒイ」いいながらの急降下、林道までの踏み跡に近い道を辿りながらの「谷通しの方が楽だった」との愚痴、2時間ほどの林道歩きで、伐採小屋に転がり込んで食事付きの一夜の宿をめぐまれる。翌朝は便乗のトラックまで世話してもらって、日高振内駅にでた。当時の北海道の杣人たちの親切に感謝、感謝。
初めての遭難もどき
小生、少年期は四国のど真ん中の山村で過ごした。四国三郎・吉野川が中央構造線に沿って西に遡り阿波池田に至り、ここで直角に折れて南北に走る。この折れ曲がりから少し南に遡った吉野川の河岸段丘上に、我が故郷はある。後ろには標高五、六百メートルの山が迫っている。
昭和30年頃はこの辺り製材業が盛んで、村の中心である我が部落には数軒の製材所があり、ちょっとした賑わいを見せていた。どの家庭にも2,3人の子供がいたから、子供の数も多かった。ちなみに我が家は男3人と末の妹の4人である。当時、塾などはなく、学校の宿題なども真面目にやる奴は異端視された時代であるから、学校から帰ると夕方まで子供たちは屋外に溢れて遊びまわっていた。遊ぶのは部落単位で、大体小学6年生が大将となって下は年端のいかない者まで面倒をみるのが習慣であった。鬼ごっこ、かくれんぼ、陣取り合戦などの遊びでも、小学校へ入る前の子供も混ぜてやった。ただし、彼らはアブラゲと称して、鬼などの主要な役には就けないのである。いわゆる、東京でいうミソッカスである。大阪郊外で育った息子に聞くと、この辺りではゴマメと云っていたそうである。
これはその頃の話。小生が小学6年の時である。本来は餓鬼大将として一同統率しなければいけないのであるが、勉強は出来たが、気が弱くて一向に統制力のなかった小生は、二人の5年生の腕白坊主にグループをかき回されていた。
2月末か3月初めの日曜日、誰が言い出したのか、皆で弁当を持って裏山へ遊びに行こうと云うことになった。小生を始め、例の5年生達、3年と1年生の小生の弟ほか全部で十名足らずである。当日は快晴、一同元気に出発した。裏山の中腹に、小さなお堂があり、そこを基点に一周、小一時間程の御四国がある。八十八ヶ寺の本尊の石仏が並べてあるのを、拝みながら廻るのである。
誰も時計など持っていないので、その辺りで腹時計にしたがって昼飯にする。おそらく十時頃だったろう。弁当と云っても、忙しい母親が学校の遠足でもないのに特別なものを作ってくれるわけもなく、卵焼きでも入っていれば大御馳走と云う程度の普段の学校へもって行く弁当である。その頃の小学生は、昼休みには出来るだけ速く弁当を食べ終わって校庭で遊ぶことになっていたから、昼飯と云ってもアッという間に終わる。
まだ午前中なので、何をしようかということになった時、誰ともなく五の丸山まで行こうということになった。五の丸山は裏山から尾根伝いに3,4キロ歩いた所にある標高823メートルのこの辺りの最高峰である。昔は砦があったらしく、刀の鍔が出土したと聞いたことがある。
冬枯れの尾根道を一同元気に行進する。歌なども歌っていただろう。五の丸近くに来た頃、にわかに天候が悪化してきた。気温が下がり、この時期には珍しく雪が降り出した。さすがに腕白どももこれはマズイと急いで引き返すことにした。雪はますます烈しくなり、辺りに白く積もりはじめた。
五年の腕白が「近道しよう」と笹原に突っ込んで行く。「オー」と一同後に続く。無茶である。ここまでずっと真っ直ぐ尾根伝いに来たのに、近道がある訳がない。とうとう道が判らなくなった。雪はしんしんと降っている。幹部連中、さすがに「これはえらいことになった」と深刻になる。高度成長期以前の、貧しい山村の子供たちである。ろくな服装はしておらず、寒さが身に沁みてくる。下の弟など低学年の子供たちは泣き出している。
とにかく道に出なければいけないと思うが、登り返して元の道へとの考えは浮かばない。下へ、下へである。しかし、それほど深くない里山のことである。ありがたいことに、しばらく薮をうろついていると山道にであった。それを少し下ると、数人の山仕事のオッチャンが焚き火をしているのに行き合った。ヤレヤレである。火に当らせてもらって、やっと人心地、一同元気になる。「おまえら、何処から来たんぞ?」「中西じゃ」「そら、えらい遠いとこから来たのう。ここを下ると池田の町じゃ」
粘土質の下り坂はその上に積もった雪でツルツルである。おまけに我々の靴は、よく履き込んで、そこはペラペラになっている。みんな、面白いようによく滑って尻餅を搗いた。ようよう下りきった時には、一同、ズボンは赤土で泥んこであった。さすがに、この格好では人里に出られないと感じる程度の羞恥心はあった。路傍にあった大きな溜め池で、霙降る中一列に並んで、ズボンを脱いで洗う。
町から私達の部落まで、鉄道
この話は、今でもたまに兄弟が集まると必ず出てくる思い出話の一つとなっている
追記:さて、この話を弟の一人に見せたところ、帰宅して炬燵で食べた、母親が食堂からとってくれたラーメンの美味しかったことを今でもはっきりと思い出すと言った。このことに関しては小生の記憶に全くない。まあ小生には、それほど旨いと思われなかったと言うことかもしれない。